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大阪地方裁判所 昭和31年(ヨ)48号 判決

申請人 小野義昭 外一五名

被申請人 株式会社朝日新聞社

主文

被申請人は本案判決確定に至るまで、申請人等(ただし、申請人近藤及び同富島の二名をのぞく)を被申請人の従業員として取扱い、かつ申請人小野、谷、西田に対し昭和三一年二月一日、申請人北条に対し同年三月一日、申請人池田、神田、伊藤に対し同年八月一日、申請人立石に対し同年九月一日、申請人印藤に対し同年一〇月一日、申請人笠木、山本に対し昭和三二年二月一日、申請人田中に対し同年四月一日、申請人萩原に対し昭和三三年三月一日、申請人森本に対し同年一〇月一日以降各一ケ月別紙第一賃金月額欄記載の割合の金額を毎月一五日と二八日に同表記載のとおり分割して(ただし、既に履行期の到来した分については即時に)支払わなければならない。

申請人近藤及び同富島の本件仮処分申請をいずれも却下する。

訴訟費用は、申請人近藤及び同富島の関係において生じた部分は、同申請人等の負担とし、その他の申請人等との関係において生じた部分は被申請人の負担とする。

(注、無保証)

事実

第一、申請の趣旨及びこれに対する答弁

申請人等は「被申請人は本案判決確定に至るまで申請人等を被申請人の従業員として取扱い、かつ申請人小野に対し昭和三一年一月三日、申請人谷に対し同月八日、申請人西田に対し同月三一日、申請人北条に対し同年二月一九日、申請人池田に対し同年七月六日、申請人神田に対し同月二〇日、申請人伊藤に対し同月二四日、申請人立石に対し同年八月一三日、申請人印藤に対し同年九月一七日、申請人笠木に対し昭和三二年一月一七日、申請人山本に対し同月一九日、申請人田中に対し同年三月三日、申請人近藤に対し同年九月一九日、申請人萩原に対し昭和三三年二月一一日、申請人森本に対し同月一二日、申請人富島に対し昭和三四年一月一七日以降各一ケ月別紙第一賃金月額欄記載の割合の金額を毎月一五日と二八日に同表記載のとおり分割して支払わなければならない」との判決を求め、被申請人は「申請人等の申請を却下する。訴訟費用は、申請人等の負担とする。」との判決を求めた。

第二、申請人等の主張

一、申請人等はいずれも別紙第一記載の各入社年月日に同表記載のとおり被申請人会社(以下、会社ともいう)の東京本社、または大阪本社に入社し、それぞれ本件解雇に至るまで原稿係として編集局各部に配属され、原稿の頁つけ、原稿運び、原稿分け、ゲラサシ、電話受稿、書直し、切抜き等の記者見習的業務に従事してきたものであり、いずれも会社従業員で組織する朝日新聞労働組合(以下、単に組合という)の組合員である。

二、しかるところ、会社は同表記載の各解雇日附で申請人等に対し会社就業規則第四七条、第四八条及び同付属規定「停年、停年休職規定」、同付則(ただし、申請人近藤については右付則を除く)を各適用し、申請人近藤を除く申請人等一五名については満二五歳、申請人近藤については満二〇歳の給仕停年該当を理由に停年解雇の通知をなした。

三、しかしながら、会社の申請人等に対する右解雇は次の理由から無効であり、従つて申請人等は依然会社の従業員たる地位を有するものである。

(一)  前記会社就業規則及び同付属規定(その付則をも含め)の条項は、申請人近藤を除くその余の申請人等一五名の関係で同申請人等の労働契約を一方的に不利益に変更したもので、無効である。すなわち、

(1) 近藤を除く右申請人等は、前記各入社に当り、いずれも原稿係の満二〇歳又は満二五歳の停年を告げられず、又そのような停年制のあることを知らずに入社したものであつて、これを雇用の条件としたものではなく、却つて「一生朝日新聞社で働く」ことを所望され、会社との間に口頭で一般社員と同一内容の労働契約を締結したものである。ところで、右現行会社就業規則(その付属規定および付則を含む、)は昭和二六年七月一日施行にかかるもので、昭和二三年八月制定の就業規則(第一次)を改正したものであるが、右第一次就業規則は後記のとおり無効であるから、現行就業規則が会社就業規則として形式上有効に成立した最初のものである。しかるに現行の右就業規則中給仕(原稿係を含む)停年に関する条項は、右申請人等の労働契約を爾後において不利益に変更したものであつて、就業規則により労働契約を一方的に不利益に変更することはできないから、右就業規則条項は右申請人等に対する関係では無効である。

(2) 現行就業規則以前において人事内規及び第一次就業規則に給仕(原稿係を含む)停年制に関する規定が存したこと会社主張のとおりであるが、右諸規則はいずれも次に述べるとおり無効であつて、前記申請人等を拘束するものではない。従つて、仮に、右申請人等に前記内容の労働契約締結の事実が認められないとしても、同申請人等には一般社員同様の五五歳停年が適用になるものであり、この点を不利益に変更した現行会社就業規則の給仕停年に関する条項は、前同様の理由から右申請人等に対する関係で無効たるを免れない。すなわち、

(イ) 会社には戦前から人事内規なるものが存在し、その定限年齢の項に給仕の定限年齢を二〇歳とする旨の規定があつたが、右人事内規は、今日の就業規則ではないし、その内容は一般従業員に周知せしめる措置が採られてなく、またこれを整理した文書としては人事課内に人事部長用、課長用、一般人事課員用をあわせて三冊があつたのみで、一般従業員がその内容を知り得る状況にはなかつた。要するに、かかる人事内規は、会社経営者の人事取扱い上の純然たる内部的基準にとどまり、一般従業員を拘束する法的効力を有しなかつたものである。

(ロ) のみならず、給仕(原稿係を含む)の停年制について人事内規は実施されておらず、実際には人事内規と異なつた慣行が社内に行われ、戦前から戦後にかけて二〇歳定限年齢で意に反して辞めさせられた事例はなく、大阪本社では、給仕は中等学校を卒業するとともに自動的に事務雇員、その他給仕でない従業員に昇格し、東京本社では、事務雇員の制度はなかつたが、右の場合、再雇用の形式で全員自動的に一般社員となつていたもので、現に給仕として入社しその後昇格して会社中枢部で継続勤務している者も多数存在している。

(ハ) 仮に、人事内規に法的拘束力があつたとしても、昭和二一年一二月一日会社により「身分制撤廃の措置」がとられ、従来存した人事内規所定の社員、准社員、雇員の三階級は戦後の民主化の線に沿つて撤廃され、一律に社員となり、これに伴い右内規所定の給仕定限年齢の差別も、社員と准社員の定限年齢の差別規定と同様、廃止された。従つて、前記申請人等一五名中、第一次就業規則当時に入社した北条、伊藤、富島の三名をのぞく他の一二名には、社員同様の停年が適用され、人事内規所定の給仕定限年齢の規定は適用される余地がない。

(ニ) 次に、昭和二三年八月制定の会社就業規則(第一次)において、給仕(原稿係を含む)の停年を満二五歳とする旨の定めがなされたけれども、右第一次就業規則は、次の理由により無効というべきであるから、前記申請人等は右就業規則の停年に関する規定の拘束を受けるものではない。すなわち、

(A) 会社は右就業規則の作成につき労働組合の意見を聴いていない。

会社は昭和二三年二月経営協議会の席上、当時の朝日新聞社従業員をもつて組織する組合である日本新聞通信放送労働組合(略称、新聞単一)朝日支部に対し就業規則案を提示したが、同組合は労働協約締結後に就業規則について協議することを申入れ、会社もこれを了承して日数を経過したところ、同年八月会社から当時の朝日新聞労働組合である全日本新聞労働組合(略称全新聞)朝日支部の組合委員長松井透に対し「就業規則未届のため労務加配米の配給を打切られるので、就業規則に対する意見書を提出して欲しい」旨の申入がなされ、その結果右松井は加配米の配給停止をおそれて「意見書を出すことができない」旨の意見書を会社に提出したのであるが、会社が現実に監督官庁に届出た就業規則は前記新聞単一朝日支部に会社が提示した就業規則案とは異るものであるのみならず、全新聞朝日支部に対しては、右届出の就業規則の案が提示された事実もない。右の如き事情下に労働組合が提出した前記の意見書は労働基準法(以下単に労基法という)第九〇条にいう労働組合の意見を聴いたものということはできないから、右就業規則はその制定手続に瑕疵があり、無効である。

(B) また、右就業規則は従業員に周知させる方法が講ぜられていないから、労基法第一〇六条所定の周知義務に違反し、この点からしても無効である。

叙上の次第で、人事内規並びに第一次就業規則は、前記申請人等一五名を何等拘束するものではなく、同申請人等に対しては一般社員同様の停年が適用になるものであるところ、現行会社就業規則中給仕停年に関する条項はこれを不利益に変更するものであるから、右申請人等に対し無効というべきである。

(二)  停年制は重要な狭義の労働条件の一つであつて、就業規則の内容となり得ないものであるから、この点に関する就業規則の条項は無効である。

就業規則は会社経営者が経営秩序を維持確立するため、労働力を如何に使用するかを一方的に定めるものであつて、労働契約、すなわち労働力の売買の条件を就業規則により一方的に規定し得るものではない。ところで、停年制は労働契約の消滅に関する事項であつて、労働者にとつて重要な狭義の労働条件の一に属するから、かような事項を経営者が一方的に就業規則で定めることは許されず、従つてこの点に関する右就業規則条項は無効である。

(三)  原稿係の二五歳(または二〇歳)停年制を会社が一方的に就業規則に規定することは解雇権(経営権)の乱用であつて許されず、右就業規則条項は無効である。

(1) 停年制の合理的根拠

停年制は「老齢による一般的能力の減退を理由に年齢により画一的に退職させる制度」と解され、一般的労働能力の減退を理由としてのみ是認され得る制度である。その労働法上の性格は、「労働者側の意思に基かず、使用者側の一方的意思により労働契約を終了させる」という点で、解雇に外ならない。もつとも停年制については、隠居説、後進に道を開く説、職種説、停年までの身分保障説等種々の考え方があるけれども、いずれも現代社会における停年制の一般通念を把握したものではなく、近代的労働契約における停年制の解釈の一般原理として容認できるものではない。近代的労働契約は企業における労働者としての身分取得を目的とすると同時に労働力の売買契約であるから、労働力が契約どおり提供されない場合には、使用者は一定の制約はあつても、契約の解除をなし得るのであつて、この意味から労働力の減退喪失が解雇または労働者としての身分喪失を来たす理由となり得るし、停年制度が是認できるのである。前記の諸説もその根底には「老齢任にたえず」という用語に表現されるように、「老朽又は老齢による能力減退の事実が常に底流をなしていることは注目すべきことである。しかして、叙上の意味の停年制に該当しない停年制は労働法上許されないと解すべきである。のみならず、近代的労働契約は人格としての労働者の企業における身分取得の一面を有するのであるから、個々の労働契約において予定された労働力の提供が完全にはなされない場合でも、職場の配置転換により企業全体としての労働力の効率発揮を害しない限りは、労働者の身分喪失を来たす解雇権の発動は許さるべきでない。

(2) 原稿係の業務内容

原稿係の業務内容は前記例示(第二の一)の外、記事、写真の取材、新聞掲載の写真スペースの計算、必要資料の調査蒐集、更に原稿便の管理と送受事務、資料としての他新聞の管理と配布、時間外勤務表作成、外部への原稿料支払に関する会計事務等々多種多様にわたり、いわゆる給仕とその質を異にすることは会社自身原稿係の記事、写真の取材等につき部長賞を授与し、或いは原稿係が未熟なため取材活動に支障を来したと報告し、またこれを補充のため原稿係が出張させられる等の事実からも窺われ、その業務内容の重要性が裏づけられる。それ故にこそ、被申請人の主張するような徴用防止の措置も必要となつたのである。

原稿係の業務と編集局内の業務とを対比するため、会社大阪本社の編集局の構成並びにその業務内容を示すと次のとおりである。すなわち

編集局は、経理部(三八名、取材された記事の総括的整理と編集)、経済部(二三名、経済記事の取材)、社会部(五七名、社会面記事の取材)、通信部(四七名、地方記事の蒐集と整理編集)、連絡部(八〇名、各本社、各地方支局間の電話、電信、電送等による連絡)、写真部(二四名、本社管内の写真ニユースの取材)、校閲部(四四名、活字にされた小刷りゲラの校正)、調査部(一七名、記事、図書、写真等の切抜き、整理、保存)、学芸部(一五名、学芸記事の取材)、運動部(一三名、運動記事の取材)、その他編集庶務部(六九名)、記事審査部(四名)、世論調査部(四名)、特信課(六名)、地方支局、通信局等に分れて、それぞれの業務を担当するのであるが、原稿係は右編集庶務部に属して前述の如き業務に従事し、右各部の業務内容と原稿係のそれとを対比すれば原稿係が「茶汲み給仕」と質を異にすることは明白である。

右のとおり、原稿係の業務は簡易機械的なものでなく、新聞記者の見習的業務又は補助的業務であつて、記者の業務と交錯する点が極めて大きい。原稿係は熟練するに従い、電話受稿、写真取材、ヘル受信、調査部における資料の選出、ラヂオプロ作成等の記者業務を現実に担当している半面、原稿係から継続雇用された新聞記者で原稿係と全く同一の業務を担当している者は多数存し、「記者の補助」「事務雇員」(いずれも二五歳又は二〇歳停年ではない)と原稿係とはその業務内容が全く同一である。

(3) 原稿係は停年に達しても、勤務能力は減退しない。

原稿係の業務がこのような内容と実態をもつことに徴すると、原稿係は、入社当時こそ一五、六歳の少年で、お茶汲み、鉛筆削り等の給仕的仕事以外にする能力がないのが一般であるとしても、勤務年限と年齢の増加に伴い前記のとおり原稿係としての記者の補助的業務を行う能力は益々増大し、二〇歳ないし二五歳になつて漸く一人前の活動ができるようになるのである。原稿係停年制の満二五歳又は二〇歳といえば、まさに能力の充実期であるし、いかなる意味においても、勤務能力が減退するということはあり得ない。従つて、能力の減退は原稿係停年制の理由にはならない。

強いて原稿係の若年停年制の実質的理由を追及すれば、被申請人主張の「大供は使いにくい」という点であろう。しかし、これは感情論であつて、前記のごとく、原稿係から一般社員になつた後も依然として原稿係の仕事を続けているものが多数存することからみても、「大供は使いにくい」というのは、事実に反する。

(4) 配置転換の能否

(イ) 原稿係の若年停年制の実施状況については、前記の人事内規当時は勿論、その後昭和二六年一〇月頃までは、原稿係はその業務に習熟して能力の増大するに伴い、自動的に一般社員に昇格もしくは継続雇用され、編集局各部その他の適当なる部署に配属されていた。戦後における継続雇用の形式には、(A)、一旦退社の形式をとらずに継続雇用されるもの、(B)、一旦退社、即日再雇用の形式をとりながら、その間特別の選考とか試験のないもの、(C)、一旦退社、アルバイト・コースを経て再雇用されるもの、という三つの形式があり、右(B)(C)の場合についても、少くとも社会的、経済的には、全く解雇の事実は存しないのである。このように、昭和二六年一〇月以前においては、停年解雇の実例なく、その後においても、停年該当者の大多数は、右のような形式、ことに即日再雇用の形式で五五歳停年の一般社員に昇格していた。従来の慣例によれば、むしろそのように昇格することが通常のコースといえるのである。大学卒業者でなければ、編集局員として不適格ということはない。又編集局員として不適格の場合でも、従来は、他部局へ配置転換したり、あるいは直系会社の社員に採用していた。それでいて、何等経営上の支障を来たしていないのである。

(ロ) 会社は近代的大企業組織を有し、年間退職者(停年、依願その他の退社を含む)は、会社全体で一七〇名ないし二五〇名であつて、毎年その補充が行われており、そのうち編集、業務、印刷各局で大学卒業者が五、六十名、新制高校卒業者約三〇名がいずれも試験採用、その他一〇〇名前後が試験によらないで採用されているのである。

一方、原稿係の停年該当者は、昭和二六年以降年間数名ないし二、三十名である。従つて、僅か二、三十名の停年該当の原稿係を補充採用すべき一七〇名ないし二五〇名の職場に配置転換し得ることは、一見して明白である。

(ハ) 会社は、原稿係に対し、他局の欠員に伴う配置転換を系統的に行つていない。会社は、原稿係は編集局以外への配置転換を希望しないとか、編集局から他局(印刷、業務、総務、出版の各局)への配置転換は、会社の機構上行い得ないというが、後者の点については、編集局と他局との人事交流が行われているし、又前者の点については、本人に配置転換希望先を全く質さず、所属部長(編集庶務部長)等が継続雇用の可能性(欠員の有無、配置転換の可能性)を一方的に判断しているのであつて、継続雇用(昇格)上申書作成に当り、停年該当者に就労意思、希望先など全然聴かずに、ある者については上申しないという態度をとつていることからみても、このことが明かである。又、会社は、原稿係の配置転換については、何等かの特技を必要とするかのようにもいうが、会社は、ある者については、配転後、配転先の職務に必要な資格獲得の便宜を与え、ある者については、天野昇一連絡部員のように、原稿係在職中に会社の便宜を得て必要な技術を修得している例が多いのであつて、かかる措置をとらず、漫然と特技がないことを理由に停年解雇することは、許されない。

(ニ) 以上(イ)ないし(ハ)の各事実に徴すれば、会社の現状、規模、人事の実情からみて、会社が系統的人事を実施することによつて、停年該当の原稿係を配置転換させることは、可能といわなければならない。

(5) 申請人等の所属する編集庶務部以外――例えば印刷庶務部――においては、給仕の業務(お茶汲み等)を行つている従業員を一般社員と同様五五歳停年をもつて遇し、その能力の増大とともにそれに適した部署に組入れて労働力を使用収益しているにかかわらず、申請人等の職種である原稿係及び給仕という職名の従業員に対してのみ能力減退を理由に二五歳停年を就業規則で一方的に定めているのである。

(6) 原稿係の若年停年制は、新聞企業に固有必然のものではない。

わが国の新聞企業界において、以前から給仕停年制を採用しているのは、被申請人会社と毎日新聞の二社にすぎず、他の新聞社が給仕停年制を採用するに至つたのは、昭和二十七、八年以降である。共同通信の場合は、会社側が新たに給仕停年制を採用したので、組合が強力に反対し、結局会社側は、「他社との釣り合い上、成文化するだけで、実際にこれを適用して解雇することはしない」と言明し、労使間に右確認をとつて就業規則に盛り込んだという経過があり、その他の各社においても、朝日、毎日をのぞいては、その就業規則中の給仕停年制は死文化し、現実には適用の実例が一つもない。従つて、被申請人側のいうように、原稿係の若年停年制が原稿係の職務の性質からしても、また新聞事業の本質からしても、必然であるというのは、当らない。

(7) 原稿係は育英的なものと被申請人は主張するけれども、戦前は学校へ行くことは原稿係の要件ではなく、学校へ行つた方が将来によいというに過ぎなかつた。また、学資金の補助はあつたけれども、これは戦時中会社には朝日新聞青年学校があつて、社外の中等学校以上の学校に行かない限り強制的に右青年学校に入ることとなつており、その教育は勤務時間中に、しかも会社の費用負担で行われていたから、これとの均衡上社外の中学校通学者にも学資金の一部支給の便宜が計られたものにすぎない。しかも右学資金の補助は昭和二一年一二月一日の身分制撤廃とともに廃止された。これを要するに、原稿係は育英的なものではなく、或時期において原稿係の中の勉学希望者に会社が或程度の便宜を計つたというにすぎない。原稿係が育英的なもので、勉学中の青少年の腰かけ的な仕事というのは、当らない。

(8) 原稿係に対する満二五歳又は満二〇歳の停年制は、このように、労働力の減退に関係なく、配置転換による企業の効率発揮にも何等支障がないのみならず、その運用面において、会社は、停年該当の原稿係のある者は継続雇用し、ある者には、これを適用しようとするものである。かかる職種別の若年停年制は、これに藉口してすべての組合運動家を実質上解雇理由を示さずに退職させることを可能ならしめるものであり、労働保護法を完全に蹂躪する危険をはらんでいるのであつて、もともと停年制としてこれを認める本質的理由を欠くものというべきである。従つて、かかる停年制を就業規則で一方的に定めることは、国民の勤労権を保障する憲法第二七条や民法第一条二項に違反するばかりでなく、憲法第一二条、民法第一条三項に違反するものであつて、結局経営権の乱用として許されないものというべきであるから、この点に関する前記就業規則条項は無効である。

(四)  原稿係停年制に関する就業規則条項は「原稿係」という社会的身分による差別待遇であつて、憲法第一四条、労基法第三条に違反し、無効である。

会社は労働能力の点を殊更に度外視し、大学専門学校出身者でないという社会的身分や、記者の補助的業務に従事するという仕事上の差異に対する社会的観念を巧みに利用し、原稿係と称せられる社会的身分を有することを理由に一般従業員と差別して取扱い、原稿係停年制を設けたものである。これを沿革的にみても前記人事内規では原稿係は国民学校卒業程度の子供さんであつて、社会的に一人前の人格として認められず、従つて一個の労働者といわんよりか徒弟的な最下底の身分者として取扱われていたのであり、右内規の定める給仕(原稿係を含む)定限年齢は職種によるものでなく、明らかに身分的差別によるものであつた。会社は昭和二一年一二月の身分制撤廃に際し人事内規所定の身分制を廃しながら、給仕(原稿係を含む)定限年齢については可能な限り、これを温存せんと企図したものに外ならない。従つて、就業規則の給仕停年制に関する規定はそれ自体憲法第一四条、労基法第三条に違反し無効であり、かような規定を適用した本件解雇も亦無効である。

(五)  不当労働行為に関する主張

(1) 就業規則及び付属規定の給仕停年の規定は、右規定を設けたこと自体不当労働行為であるから、右規定は無効である。

会社が給仕の業務を行つている従業員に必ずしも給仕の職名をつけず、また原稿係とほぼ同一業務内容をもつ原稿連絡係員を給仕でないとし、これら従業員を一般職員として扱つているにかかわらず、原稿係を殊更給仕の中に含ましめ、これに二五歳(または二〇歳)停年制を採用した所以のものは、原稿係に中心的組合活動家が多いところから停年制を利用し、組合活動に介入支配し不利益扱をせんとする意図を有していたからであつて、右停年制の規定を就業規則に設けたこと自体不当労働行為であり、従つて右規定は無効である。

(2) 仮に叙上の主張が理由がないとしても、申請人等に対する本件解雇は不当労働行為であつて、無効である。

申請人等に対する本件解雇は申請人等が活溌な組合活動をなしたことを理由とするのであつて、給仕停年制に藉口して不当労働行為意思を実現したものに外ならず、この点からも無効というべきである。このことは次の事実から明白である。

(イ) まず、停年解雇された者と解雇されなかつた者の組合活動歴を比較するに、大阪本社の場合停年解雇が始めて行われた昭和二八年一〇月以降の分をみるに、継続雇用者七名はいずれも組合役職についたものでないにかかわらず、解雇となつた一一名の中四名の女子原稿係を除く七名はいずれも活溌な組合活動家で重要な組合の役職を歴任したものである。また、東京本社の場合をみるに、停年解雇が始めて行われた昭和二六年一〇月以降の継続雇用者二九名中、組合活動経歴のあるものは五名で、その比率は一七、二パーセントであるに対し、停年解雇者二二名中組合活動経歴のあるものは一〇名でその比率は四五、五パーセントで両者の間に著しい差がある。

(ロ) 次に、会社において原稿係の停年解雇がなされるに至つた時期をみるに、会社は、昭和二三年秋の闘争で朝日新聞社の労働組合が分裂した後、昭和二五年夏レツド・パーヂを行つて以来組合に対する弾圧を強化し、この頃から二五歳停年に藉口して組合活動家や進歩的な原稿係を社外に排除せんと企てた模様で、まず昭和二六年一〇月原稿係であつた訴外鈴木益弘を停年解雇し、昭和二八年頃から従来殆んど行つていなかつた二五歳停年制を適用して組合活動をなした原稿係を次次と解雇するに至つたのである。

(ハ) 原稿係は活溌な組合活動家の集りで、前記秋の闘争後労働組合が分裂し、組合活動が殆んど行われなかつた時においても、年少者プラスアルフア差別反対闘争、レツド・パーヂ反対闘争等の組合活動をなしており、組合統一後の昭和二七年五月から同三一年四月までの間において大阪本社の原稿係が支部役員、執行委員専門部長等に選出された率は支部全体の組合員から支部の前記役員が選出された率に比し約二倍ないし五倍半平均三、七九倍であり、青年部役員の前記同様の選出比率も約二倍ないし三倍半で平均二、八八倍を示し、原稿係から多くの組合役員が選出されていた外、いわゆる青年部行動隊として組合活動の推進力をなしていた。

(ニ) 殊に、申請人等はいずれも活溌な組合活動家であつて、申請人小野は組合東京支部青年婦人部委員、同中央委員、同執行委員等を、申請人谷は組合大阪支部各大会代議員、青年婦人部委員、同書記長等を、申請人西田は組合大阪支部青年婦人部教宣班長、同執行委員等を、申請人北条は組合東京支部青年婦人部長、執行委員、教育宣伝部長等を、申請人池田は組合大阪支部青年婦人部副部長、同停年制対策班長等を、申請人神田は組合本部執行委員大阪支部執行委員、青年婦人部長、教育宣伝部長、労働強化実態調査委員会幹事長、停年制対策班長等を、申請人伊藤は組合東京支部青年婦人部地方対策委員、同教育宣伝班員等を、申請人立石は組合東京支部青年婦人部機関紙班長、教育宣伝部員等を、申請人印藤は組合大阪支部副書記長、青年婦人部長、執行委員、教育宣伝部長、文化部長等を、申請人笠木は組合本部青年婦人部長、東京支部青年婦人部地方対策班長、同文化班長、同停年制対策班長等を、申請人山本は組合大阪支部青年婦人部副部長、同地方対策班長、同停年制対策班長等を、申請人田中は組合東京支部執行委員、教育宣伝部長、法規対策部員等を、申請人近藤は組合大阪支部青年婦人部停年制対策班長、文化部員等を各歴任し、申請人森本は組合大阪支部青年婦人部停年制対策副班長等に就任罹病して朝日羽衣厚生園に入院中自治会を結成して完全看護を要求して闘う等し、申請人富島は大阪支部中央委員青年婦人部労務対策班副班長、同部情宣班副班長、同部機関紙班副班長等を歴任し、いずれも争議時(争議状態を含む)には行動隊に加わり宣伝活動等を行い、特に会社からはその活溌な組合活動、または組合活動に関連する協友会活動(なお協友会は原稿係をもつて組織した団体で原稿係の労働条件の維持改善その他の経済的地位の向上、職場内の民主化のための活動をなしており、その活動は組合活動の一部となつていた)のゆえに注目されていたものであるが、その勤務状況、能力等において解雇される事由は少しも存しない。会社側は編集庶務部長等の職制を通じて、組合活動に活溌な原稿係に対し、「君が二五歳になるのを待つている」「あいつは組合ばかりにかぶれている。仕方ねえやつだ」「神田は仕事は真面目なんだが、組合の黒幕だから、停年解雇はやむを得ない」等の趣旨のことを述べて、平素から不利益取扱いの意図を示していたものである。

(ホ) 以上の点から、本件解雇は組合活動を理由とし、停年制に藉口してなされたものであることは明らかであつて、不当労働行為として労働組合法第七条第一号、第三号に違反し、無効である。

(3) 申請人等の停年退社後会社が申請人等を再雇用しなかつたのは組合活動をなしたことを理由に不利益扱いをしたものであつて、許さるべきでない。

(六)  本件解雇は解雇権の乱用であつて、無効である。

解雇は今日では無制限でなく正当な事由を必要とするものと解すべきであるところ、本件では申請人等が一定の年齢に達したというだけの理由で解雇したのであつて、本件解雇を正当ならしめる事由は何等存しない。原稿係は昭和二六年一〇月以前には自動的に一般社員に昇格していた。すなわち、前記のごとく、大阪本社では中学校卒業とともに自動的に事務雇員となり停年の適用はなかつたし、東京本社でも事務雇員の制度はなかつたけれども、大阪本社の事務雇員の場合と同様(ただし、形式は再雇用)全員自動的に一般社員となり停年の問題を生じなかつた。その後、原稿係は停年退社再雇用の形式をとつて継続雇用されるものと停年解雇になるものとに分れたが、前者は停年退社の形式をとるのみで従来の事務雇員の一般社員への昇格と実質上異るところがなく、社会的経済的には全く解雇というべきものではない。一方後者の停年解雇が行われる場合には抽象的に「社員として非常に適しているかどうか」が基準にされ、しかもこれは一方的に編集庶務部長等の主観によつて左右されているのであつて、積極的な解雇理由なるものは存しないのである。

以上のとおり正当な解雇理由がないのみならず、前記の如く昭和二六年以前は停年解雇の事例はなく、その後においても停年該当者の大多数は即日再採用の形式でそのまま編集局に止まり五五歳停年の社員になつており、極く例外な場合でも配置転換或は傍系会社の社員に採用されているのであり、会社の規模、人事の実状からすれば、現在も将来も配置転換の可能性は無限である。原稿係が編集局以外への配置転換を希望しないとか、編集局から他局への配置転換が会社の機構上、行い得ないとかの事実はない。会社は配置転換の希望をきかず、一方的に他部局への配置転換を希望しないものと判断し停年解雇をしているのであつて、かようなことは明らかに解雇せんがための解雇であつて、解雇権の乱用であり、無効である。

四、以上の理由で、本件解雇は無効であるから、申請人等は解雇無効並びに賃金請求等の本訴を提起する準備中であるが、申請人等はいずれも賃金を唯一の生活手段とする労働者であつて、本件各解雇当時会社から別紙第一記載の賃金をそれぞれ毎月一五日と二八日にその記載の額に分割して支給を受けていたものであるところ、右本案判決の確定をまつにおいてはその間解雇の取扱を受けることにより回復できない損害を蒙るので、右の損害を避けるため、被申請人に対し、申請人等をその従業員として取り扱い、かつ、申請人等に対し、従前の割合による賃金の支払を命ずる仮処分を求めるものである。

五、原稿係の停年制に対する組合の態度

被申請人主張の昭和二四年七月一一日付及び同年八月一〇日付の各労使間の覚書についてみるのに、当時在籍していた申請人等のうち、大阪本社関係の者は、全新聞朝日支部(第一組合)に残留し、東京本社関係の者は、被申請人主張の六つの組合で結成された全朝日新聞労働組合(略称、全朝日。第三組合)系の組合に所属し、いずれも朝日新聞労働組合(第二組合)に所属しなかつたものである。従つて、会社と第二組合間の昭和二四年七月一一日付覚書については、右申請人等は、何等の拘束も受けない。

また、会社と統一協議会(第一組合と右の全朝日系の六つの組合とから成る)との間における昭和二四年八月一〇日付覚書(乙第二九号証)の成立経過は、次のとおりである。すなわち、その際の団体交渉の中心は、退職金の額と停年休職期間に関するものであつたが、当時原稿係は自発的に辞めて行く者以外は全部適宜配置転換され、停年解雇を受ける者がなかつたから、原稿係の停年制は注目されず、問題にならなかつた。しかし、停年休職規定改正要綱案には、原稿係の満二五歳停年が規定されていたので、統一協議会は右覚書の調印に際し、右規定は従来の取扱に反するし、このままでは将来において二五歳になれば辞めさせる危険性もあるから、字句を実体にあわせ訂正するよう要求したところ、会社側は、かかる危惧のないことを述べ、結局将来字句の訂正を的確に行うことについて善処方を了承したものである。これによつても、右覚書は、統一協議会において、原稿係が満二五歳に達した場合退職するという意味の停年制を認めたものでないことが、明かである。

第三、被申請人の主張

一、申請人等主張の一及び四記載の事実中、申請人等がその主張の各年月日(ただし、申請人谷は昭和二〇年一二月二五日、申請人西田は同年一一月二六日、申請人萩原は昭和二一年九月二〇日に入社したものである)に入社し、いずれも停年退職するまで原稿係として編集局各部に配属され原稿係として業務に従事していたこと(ただし、原稿係の業務内容は後記のとおりであつて記者見習的業務ではない)、申請人等がその主張の組合の組合員であること並びに申請人等が退社当時その主張の賃金額の支給をその主張の支給方法で受けていたとの点はいずれも認めるが、その余の事実は否認する。(申請人近藤の退社当時の賃金は被申請人提出の第十一準備書面別表の賃金表に徴し、争のないものと認める。)また、申請人森本、富島の本件仮処分申請以前の既経過分の賃金支払を求める部分については仮処分の必要性を特に争う。

二、申請人等主張の二、記載の事実は認めるが、右は解雇通知ではなく、停年退社に関する通告であつて、近藤を除く申請人等はいずれも満二五歳、申請人近藤は満二〇歳に達すると同時に当然退職したものである。

三、原稿係の業務内容及びその停年制が設けられた理由は次のとおりである。

(一)  原稿係は会社編集局庶務部に所属し、その主な仕事は茶汲み、鉛筆削り、を初めとし、原稿運び、その頁つけ、印刷工場との連絡(ゲラ運び)、ゲラサシ、編集各部のデスクへの新聞等の配布等であつて、その生態は、別紙第七の(一)ないし(六)に描写したとおりであり、すべて簡易で機械的な仕事に限られ、申請人等主張のように新聞記者の見習という如きものではない。原稿係は以上の如き雑務に従事するもので本来は給仕であり、もとは他局におけると同様給仕と呼んでいたが、戦時中(昭和一八年九月二三日)給仕の職種に対し男子就業禁止の措置がとられたため、徴用防止の必要上昭和一八年一〇月二一日以降原稿係と改称し、その称呼を戦後も踏襲しているにすぎず、その給仕たる実質においては何等変るところがない。

(二)  原稿係の採用は朝日新聞社々員たるの資格適性に重点をおかず給仕としての適性の有無、すなわち二〇歳位までの間前叙の如き雑用的機械的業務に従事するに適した素直で健康的ないわば給仕らしい性格の少年であるかどうかをテストするだけであり(もともと、原稿係は採用時において身心ともに未発達の少年であるから、その選考に際し新聞作成に一生を打ちこみ、かつよき新聞を作るに役立つような新聞記者その他になり得るや否やの適性を見極わめることは不可能なことである)、従つてその採用手続も縁故採用が多く、関係部長以下だけが、書類選考または面接等の簡易な選考方法によつて行うのであつて、新聞記者の採用試験が優秀な大学卒業生にとつても入るに難しとされていることとは全く異る。元来、原稿係の職種は勤労のかたわら勉学を目的とする者に与えられた育英的な性格をもつており、現に会社では昼夜いずれかの学校に通学できるような勤務割を作り勉学を奨励している。社務のため学校を欠席する等はまれで、原稿係の場合は仕事はむしろ第二義的と考えられているのが実際である。しかも、一方原稿係となる者も、その親達も一生の仕事としてでなく学校を出るまでの腰かけ的な仕事として選ぶ者が多く、従つて停年に達する前に退社する例が相当に多く、中途における依願退社は七〇、八パーセントに上つている。会社は原稿係の入社後も何等基礎的訓練を行わず、通学に当つても科目の選定等に制約を加えることがないから、新聞社と全く縁のない学課を専攻している者も少くない状態である。かように、原稿係の職種は学業を修めるための腰掛的なものであるから、給仕に停年制のあることは右職種に内在する本質的なものである。

(三)  原稿係の性格、業務内容は叙上の如きものであるが、その仕事の性質は他局の給仕と異なり、時として寸秒を争い戦場の如き様相を呈する編集局内部の作業員であるから、特に身体強健で動作の敏捷なることはもとより気軽に用事を命ずることができるものでなければならない。会社はかような給仕的能力を雇つているだけであるからである。このため会社就業規則第三条(イ)は給仕の採用年齢を満一八歳までと規定するとともにその停年を一般社員と異なり満二〇歳(ただし、昭和二六年七月一日以前に入社の者は例外として二五歳)と規定したものである。しかも、原稿係は年齢の増加に伴い、多くの者の場合、仕事がつまらないものとなり、また一五・六歳の年少者とともに働らくことが外見的に具合悪いために劣等感を抱くようになり、給仕的業務に対する勤労意慾は低下し、使う方でも気軽に用事を命じにくくなる。かように原稿係が年齢を重ねるに従い給仕としての能力が減退するにかかわらず、給与は年々増加していくという現行給与体系の下で(原稿係はその労働に比し著しく高給を受けている)、一面新聞社の使命に鑑み、他面その企業としての採算面から考えても停年制を設けることについての合理的理由があること明白である。給仕停年制は新聞社ではその業務の特殊性から別紙第二記載のとおり相当数の会社がこれを採用しており、朝日、毎日、日本経済等の大新聞社が全部これを実施していることは注目に値する事実で給仕停年制が大規模の新聞企業形態に必要欠くべからざる制度であることを実証するものである。なお会社と毎日新聞社及び読売新聞社における給仕に対する取扱状況を示すと別紙第三の(一)(二)のとおりである。

(四)  なお、会社は停年退社する給仕の中で一般社員としての能力があると認めたものについては会社の正規の採用試験を省略し、選考のみで再採用の上、適当な部署に配置しており、人材登用の道は広く開かれており、また会社にとどまり得なかつた者でも就職を希望する場合は関係部課長において他の会社への就職をあつ旋したことも少くない。しかし、進学の便宜のために給仕となり学校課程を修了した後(現行就業規則上給仕停年は満二〇歳であるが通学のために停年延長の特例が設けられている)、一生を託する職場を別に求める者も少くない。

四、会社における給仕停年制の沿革は次のとおりである。

(一)  昭和二〇年当時未だ労基法の制定施行はなく、従つて当時会社には同法にいう就業規則は存しなかつたが、実質上の就業規則として昭和八年一二月二〇日施行(昭和九年一月一〇日付朝日社報に公示)の人事内規があり、会社の人事関係はすべてこれにより律せられていた。これによれば従業員の身分は社員、准社員及び雇員の三階級に分れ、更にその後昭和一六年一月二五日に至り社員の中の特別身分制として理事、参事及び副参事が創設され、また給仕は内規第七条第三項(ハ)により一八歳未満の者で体格検査に合格し選考の上三ケ月以上の試用期間を経て成績良好なるものが、正式に採用され、雇員の身分を取得することになつていた。しかして、右人事内規第一一条に給仕の定限年齢は満二〇歳(ただし女子は満二五歳)と規定され、同第一三条に定限年齢に達した准社員及び雇員は退社せしめるものとす、と規定されていた(なお、人事内規以前においても給仕停年については既に昭和四年に右内規とほぼ同内容の給仕採用に関する内規が制定されており、この内規によれば給仕の育英的性格がよく示されている)。

(二)  昭和二〇年一二月三一日前記特別身分制が撤廃され、人事内規の当該部分が削除されたが、続いて昭和二一年一二月一日人事内規第二条所定の社員、准社員、雇員の身分制が廃止され、一様に社員と呼ばれることになり、これに伴い人事内規及びその付属規定の内採用年齢、年齢定限、社員停年制、傷病休職内規、団体生命保険金、終戦引揚者取扱内規等に変更をみたが、定限年齢についてはこの時従業員は一律に満五五歳、原稿係を含む給仕は満二五歳と改められたのであつて、給仕(原稿係を含む)等の職種がなくなつた訳ではない。

(三)  昭和二三年八月一二日(東京は同月一三日)会社は所定の手続を経て当時施行されていた人事内規をもとに就業規則(第一次)を制定し、これとともに人事内規は廃止された。(右就業規則は同年三月一日から施行)しかして、右規則においては給仕停年を満二五歳とする旨の字句が用いられた(規則第四四条)が、右は人事内規第一一条の従業員の定限年齢に関する規定を承け、これと同一意味で使用したものである。なお、給仕定限年齢を延長したのは、男女同権の建前から女子のそれと同様満二五歳までとしたのであり、この規定は昭和二一年一二月一日から実施された。

(四)  なお、「社員停年制」は人事内規第一二条に基き制定されたものであるが、右就業規則の制定及び人事内規の廃止に伴い改正の必要が生じたので、会社は昭和二四年六月六日朝日新聞労働組合及び統一協議会(昭和二三年一〇月の争議を契機に当時の会社の労働組合、全新聞朝日支部は分裂し、朝日支部東京編集労働組合、全新聞朝日東京印刷職能支部、朝日新聞大阪本社労働組合、朝日新聞西部編集労働組合、朝日新聞西部再建連絡同志会及び全新聞朝日新聞中部支部が脱退者によつてそれぞれ組織され、全新聞朝日支部を含む以上七組合により昭和二四年一月統一協議会が形成され、他方脱退者の一部により同年二月朝日新聞労働組合が結成された。しかして、申請人等のうち東京本社関係の者は全部右統一協議会に属していた)に対し、停年休職期間、退職金の額等に関する改正案を内示して協議したところ、同年七月一一日朝日新聞労働組合との間に、次いで同年八月一〇日統一協議会との間に覚書を作成して、協定に達したが、給仕の満二五歳停年制は従来のままであつたため、組合側もこれを当然のこととして特に問題とならなかつた。

(五)  その後就業規則は当時の労働者の過半数を代表する朝日新聞労働組合及び全朝日新聞労働組合(前記統一協議会中全新聞朝日支部を除く六組合が昭和二四年九月に改編されてできたもの)の意見を徴し昭和二六年七月一日現行のものに変更されたが、その際給仕(原稿係を含む)の停年は満二〇歳に復元された。これは給仕の仕事の性格からみて二五歳より二〇歳をもつて退社せしめることが適当であり、かつ将来本人が新たに職を求めるに有利であるとされたからに外ならない。

(六)  昭和二七年五月会社と組合との間に労働協約が締結され、右協約で停年制につき特にふれるところはなかつたが、付則第七二条には「会社は労働条件並びに福利厚生に関する事項で、この協約に規定されていない事項については、この協約締結当時既存する条件を適用する」とあるが故に現行就業規則によつて律せられることを組合は承認したものである。しかして現行就業規則制定前に入社した近藤を除く申請人等の停年は停年、停年休職規定付則により従前どおり満二五歳であるから、右就業規則の改正により同申請人等に対し不利益な扱いがなされた訳ではない。

五、しかして、申請人等は右就業規則及びその付属規定(付則を含む)により前叙のとおり満二五歳または満二〇歳に達すると同時に当然退職したもので、現在会社の従業員ではなく、申請人等の主張するところは、次に述べるとおりいずれも理由がなく、失当である。

(一)(1)  申請人等主張の三の(一)(1)について

近藤を除く申請人等がその入社に当り一般社員と同一内容の労働契約を締結したとの点はこれを否認する。むしろ、右申請人等は原稿係の定限年齢または停年を担当課長から明示されこれを承認して入社したものである。仮に右申請人等との間に停年について何等の合意もなされなかつたとしても、申請人北条、伊藤、富島、近藤を除く申請人等が入社した当時には前叙のとおり人事内規が労使双方を拘束し、また申請人北条、伊藤、富島が入社した当時には第一次就業規則が労使関係を支配していたのであるから、近藤以外の申請人等が右人事内規または就業規則所定の定限年齢または停年に服すべきことはいうまでもない。しかして現行就業規則は前記停年制の沿革について述べたところから明らかなように右諸規則を受け継いで停年制を明確に打出しており、右申請人等に対し不利益な取扱いをしたものではない。

(2)  申請人等主張三の(一)(2)について

給仕(原稿係を含む)停年制に関し人事内規及び第一次就業規則にそれぞれ規定が存したこと前述のとおりであるけれども、その余の点は以下述べるとおりこれを争う。人事内規及び第一次就業規則は、前記給仕停年制の沿革で述べたとおり、いずれも有効に会社従業員を規制するものである。すなわち、

(イ) 会社には人事内規を周知徹底させる法的義務がなかつたけれども、会社はこれを社内に公開し、かつ機会を求めて周知せしめていた。また、社内で人事内規と異なる慣行が行われていた事実はない。右人事内規は労働契約の内容たる労働条件の基準を定型として規定したものであつて、いわゆる就業規則に外ならない。会社はこれを忠実に遵守してきたもので、苛烈な戦時中にも停年適用者が続いて出ており、戦争末期の混乱した時、定限年齢の臨時延長の措置を採るときにおいても、一々役員会の正規の議を経ている。右の次第で、人事内規は会社及び従業員双方を拘束する法規範であつて、申請人等が入社に際しその存在を知つたかどうかはその効力に何等の影響もない。また、仮にそれが法規範ではなく附従約款的な契約の定型であるとしても、契約の定型内容の知、不知は契約の効力にかかわりがないというべきである。

(ロ) 身分制撤廃の措置に伴い人事内規所定の給仕(原稿係を含む)停年制が廃止された事実はない。この点は前記給仕停年制の沿革について述べたとおり(第三の四の(二))である。しかして、右身分制撤廃に伴う人事内規等の改定の諸点は総務局から具体的に各部長宛に通知し、部員に対する周知方を要請している。

(ハ) 第一次就業規則は次に述べるとおり労働組合の意見を聴き正式の届出を了し、かつ従業員に周知せしめる措置を採つていたものであつて、有効である。すなわち、会社は第一次就業規則案を当時の会社労働組合である新聞単一朝日支部に提示したが、意見の提出をみないまま同年七月右組合は改組され全新聞朝日支部となつたが、その構成員は全く同一であつた。その後労働基準監督署からの督促が急でそれ以上の遷延は問題を惹起するおそれがあつたため、会社は全新聞朝日支部松井執行委員長にさきに示した就業規則案を修正した案をその修正の箇所を示して呈示し、意見書の提出方の申入をなしたところ、同組合から新協約の成立をまつた上で、会社、組合間できめたいとの希望を付した意見書が回付されたので、会社はこれをもつて正式に届出を了した次第であり、右は法の要求する意見聴取として形式的にも実質的にも何等欠けるところはない。また、すべての新規採用者にこれを交付する等周知義務の遵守にも遺漏はなかつた。

(二)  申請人等主張三の(三)について

(1) 停年制の機能と合理的根拠

停年制とは、本来、従業員が一定の年齢に達したとき当然に退職する制度である。それは解雇ではない。又その年齢が何歳であるかは、停年制であるか、ないかを決める基準にはならない。停年制は労働能力の減退もしくは喪失のみを理由とするものではない。停年制が普及したのはそれが企業の立場からは勿論、労働者にとつても何がしかの利益があるためと考えられる。まず、停年制は使用者にとつては(1)人事の停滞を防ぎ職場に清新の空気をもたらすこと、(2)年齢に伴い必ずしも能率の向上が求められず、または相当の年齢に達したために能力の減退をみるにかかわらず、給与は漸増し労働の質と量に比し高給をはむ結果となつた場合、これらの者を排除し、労働の質量に相応の給与をもつて新鮮な労働力を導入することができること、(3)解雇措置によつて(1)(2)の如き労務管理上の目的を達しようとする場合に伴うべき紛議や精神的苦痛を避けられること、(4)人員の配置、採用、補充が科学的に計画し得る利益がある反面、労働者にとつても(5)退職の時期条件が客観的画一的で情実の介入の余地がないこと、(6)人員の新陳代謝があるため頭打ちとならず、昇進の機会が約束されること、(7)主観的に停年まで身分が保障された安心感があり、また退職の時期が明確であるから、その後の計画を策定することも可能になるという利益がある。以上の如き停年制の果す社会的機能は同時に停年制の合理的基礎でもあり、これ等の理由から停年制は法的に容認され得るものということができる。労働力の減退、喪失のみが停年制の根拠であり基本原則であつて、それ以外の理由では停年制を認め得ないということになれば停年制は少くとも事務職員については否定されなければならない。肉体的労働力が消耗していなくても労働力の価値が給与に比較して相当でなくなつた場合、もしくは年齢の若さや精神的な柔軟さが雇入の本旨である場合等は、一般からみて働らきざかりであるとしても、継続雇用は使用者にとつて苦痛であり、客観的にみて経営に役立たないことになつた労働者(もとより給与に比較した相対的なものであるが)を解雇することはこれを容認せぎるを得ないところであろう。そうだとすれば前記の如く解雇に伴う労務管理上の不利益をさけるために停年を設けることも是認されなければならない。また、職種により停年の時期を異にすることは、職種によつてその求めるところの精神的肉体的要素が異なるところからくる当然の結果であつて、不合理ということはできない。

(2) 原稿係の業務の特殊性

原稿係の業務内容は、前記の三の(一)に述べたとおりであるが、申請人等主張の原稿係業務内容の具体例に対する反論として以下の諸点を補足する。

(イ) 電話受稿=原稿は本来記者が受稿すべきであるが、一時に何本も電話がかかつてきて記者の手が不足の際に限り、やむを得ず原稿係に手伝わせることがある。社会部配属の原稿係が毎日一定時間に気象台から送られてくる天気予報や温度の類を受稿し、経済部配属の原稿係が一週一回株式利回表を受稿することがあるが、その内容は簡易機械的なものである。また、外勤記者の出先からの送稿をそれが簡単な場合で、しかも記者が手薄な場合に原稿係が受稿することもあるが、以上いずれも各部のデスク(次長席)の責任で行われ、受稿に誤りがあつても原稿係には全然責任がないのである。しかも、原稿係がかように電話受稿をするのは政治、経済、社会部に配属された原稿係の場合だけにみられる特異現象であるし、電話受稿そのものが既に原稿になつている記事を文字の説明をしながら口述するのを書きとるのであるから、その性質は伝言、連絡であつて、取材、執筆を重要業務とする記者業務とは本質を異にするものである。

(ロ) 記事、写真の取材=記事の取材は政治、経済、社会、通信、学芸、運動各部の記者が担当し、写真取材は写真部員が当つており、原稿係にこの仕事を課している事実はない。もつとも、地方支局では原稿係がその趣味により積極的に記者を援助し、自ら勉強のため写真を取材したことはあるが、会社がこれを指示したことはない。また、部長賞は会社の正式の賞ではなく、支局長や社員の妻に対しても突発事件等で苦労をかけた場合には付与されているものである。

(ハ) 新聞掲載の写真スペースの計算=整理部員の仕事であるが、整理部配属の原稿係がたまたま整理部員から「この写真を二段で扱う場合横は何倍になるか」と倍数計をあてがつて、横の大きさを計つてもらうことがある。しかし、これは倍数計をあてがえば簡単にできる仕事である。

(ニ) 必要資料の調査、蒐集=デスクの指示により原稿係が必要資料を調査部に借りに行き、用済み後調査部に返却することがあり、また各部でそれぞれその部で必要とする紙面を切抜いてスクラツプブツクに貼つて保存しているが原稿係がこの仕事を受持つことがある。しかし、後者の場合、切抜いて保存すべき記事を指定するのはデスクまたは担当記者であつて、原稿係はその指示、指定により切抜き、貼りこみをするにすぎない。

(ホ) 原稿便の管理と送受事務=これは編集庶務部員が責任をもつて処理し、原稿係はしていない。原稿係にはただ運搬の仕事をさせているだけである。

(ヘ) 資料としての他新聞の管理と配布=他の新聞社との間で「刷出し」の交換が毎日行われているが、この交換紙を受付から運んできて、各部に所定部数を配布してまわる仕事及び自分の部の分を綴りこみにとぢてゆく仕事で、給仕が昔からしている仕事である。

(ト) 時間外労働の勤務表作成=これは基準外労働の勤務時間報告であるが、各部のデスクが部長の職掌を代行して行つているもので、デスクの記録した時間を所定の報告用紙に記入する仕事のことである。デスクの忙しい二、三の部では例外的に原稿係がこれを引受けて行つているが、要するに時間数を写しとる簡易な仕事である。

(チ) 外部の原稿料支払に関する会計事務=デスクで記入された支払伝票を会計に持つて行き現金を受取り、これを発送させる仕事で、原稿係にさせることがあるが、これも使走り的な仕事にすぎない。ただし、東京本社の学芸部で、次のような例外があつた。すなわち、昭和三〇年四月同部でこの事務の責任者の地位にあつた小此木貞治郎が停年退社したあと同年七月まで、同部に配属されていた原稿係の野本進に対し、編集庶務部の尾関課長の指示を受けて、その事務をとらせる臨時措置をとつたことがある。しかし、これは、過去において唯一の例外である。

以上のとおり原稿係の仕事は多種多様にわたつているが、一般編集局員のそれとは全く質を異にし、本質的には紙面製作に伴う雑用に属する。前記の一部例外をとりあげて、あたかもそれが原稿係の一般業務であるかのようにいうのは、著しく実情に反する。申請人等主張のごとく原稿係が未熟なため取材活動に支障を来したようなことはないし、また原稿係が出張したからといつて仕事の内容が変るものでもない。原稿係の徴用防止の措置がなされたのは仕事の重要性によるものでなく運搬、連絡等の給仕の仕事には相当の体力を要し、女子に不向きとされたからである。要するに、原稿係は、本質的に給仕である。

(3) 原稿係の年齢と能力

会社は給仕としての適性をテストして原稿係を採用し、従つて、その給仕的能力のみを雇い入れるものであること、原稿係は、ほとんど例外なく、身心共に未発達の少年期に属するものであるから、採用時に果して新聞記者の適性があるかどうかのごときは到底見極め得ないこと、原稿係の年齢増加に伴い、その給仕的能力が著しく低下すること、原稿係の職種が働きながら学業を修める青少年のための育英的、腰掛的なものであること、給仕停年制は、新聞企業に必要不可欠のものとして、多くの新聞社が採用していることは、前記三の(二)及び(三)で述べたとおりである。

右の次第で、原稿係は年少者の方が格段に能率をあげているので、原稿係の配属替の場合等には、配属先から「今度は大供でなく、子供さんにしてくれ」と注文されることが多い。「大供は使いにくい」というのは、原稿係の年齢がある程度以上になると給仕的能力をほとんど喪失するという否定し難い事実の卒直な表現に外ならない。ここにおいて原稿係の職種と年齢は切り離せない要素があり、原稿係という職種に結びついた停年制がどうしても必要なのである。

原稿係で停年退職後再採用された者に対し、依然として原稿係の仕事をやらせた事実はあるが、これは新規採用停止の措置に伴う変態現象であつて、折角停年該当の原稿係を一般社員に再採用してもその補充がつかないため、後任の枠を貰うまでやむを得ず従前の仕事をさせたまでのことで、暫定的なものにすぎない。この一事から年輩のものでも原稿係に適するとか、原稿係と一般社員に職種の相違がないという根拠にはならない。

(4) 原稿係の能力と給与との関係

原稿係は、右のとおり、長期勤続したからといつて、それに比例して労働の附加価値が増大するわけではなく、むしろ気軽に使えなくなるという意味では、役に立つ度合いが減少するという傾向のあることは否定できない。又厳密な職務分析をして職階級を定めるとすれば、原稿係の給与は、記者その他に比し、当然低くあるべき性質のものである。しかるに、実際は、わが国の戦後における給与決定のあり方の特殊性から、労働に対して賃金が払われるのではなく、人に対して賃金が払われている実情であつて、会社でも未だに生活給に重点をおいた給与体系から脱却せず、原稿係は労働価値に比し著しく高給を受けているのである。もし原稿係の停年制がなければ、その労働の価値が低くなる(少くとも増加しない)にかかわらず、その給与は逐年増嵩し、経営上非常な無理を来たすことになるのである。

(5) 配置転換は可能か

被申請人の以上の主張が容認されても、停年該当の原稿係を配置転換によつて企業内に収容できるではないか、何故に特殊な停年制を採用する必要があるか、という疑問があるかも知れない。しかし、この点については、次のような諸事情から、原稿係の停年該当者を全部継続して雇用することは、極めて困難であり、むしろ不可能である。すなわち、

(イ) まず、昭和三一年三月一日現在の人員数からみると、原稿係は東京本社(管下の地方支局、通信局を含む)だけで九三名(編集局員総数六六〇名)、全社を通じ二五一名という可成りな数に上る。原稿係の職種は新聞製作に必要不可欠な職権であるから、右程度の員数はこれを削減し得ない数である。別紙第四の東京及び大阪本社における調査結果に徴して明かなように、原稿係の依願退職者は近年漸減する傾向にあるが、もし、原稿係に特殊な停年制がなければ、依願退職者はほとんどなくなつてしまい、現在停年で退職している者を加えて、毎年三十数名にも及ぶ者のポストを別につくらなければならない。しかるに、最近五年間における編集関係の新規採用及び補充採用の数は別紙第五のとおりであつて、この人員は、会社にとり、将来編集の中心たり得る若い人材として、必要、十分な数である。これに更に前記三〇数名の者を引受けることは不可能という外ない。のみならず、会社が社員を採用する場合には編集、業務、印刷の各局において別個に試験を行い編集局で採用した者を業務局に廻すということは各職場とも独自の専門的技術的能力を必要とするため殆んどしていない。給仕を配置転換するとしても各職場ともそれに適した者を採用しているのであつて、直ちに他の職場に転換して役立ち得るものではないし、その能力がないのにそのポストにつけることを要求するのは私企業に慈善事業を強制することになる。また、能力があるならば試験を受けることにより採用されるのであつて、停年制は少しも障碍となるものではない。殊に、原稿係は他局の職種への配置転換をのぞまず、その希望は、編集局員として新聞記者の仕事をしたいというのが圧倒的であろうが、新聞記者の採用試験が難関であることは周知のとおりであつて、原稿係を編集関係に無条件に採用することはできないといわなければならない。

(ロ) 停年に達した原稿係についても、再採用によつて人材登用の道が広く開かれていることは、前記三の(四)で述べたところであり、その実例は枚挙にいとまなく、殊に昭和二六年一〇月頃までは、再採用される者が多かつたのであるが、その際も、一般社員としての適性に関して、再採用申立書の提出等一連の選考手続が厳にとられていた。すなわち、この場合は、正規の採用試験を省略するとはいえ、原稿係の数年間にわたる勤務について編集局の部長等の日常観察したところを一つの重要な資料にするのであつて、その手続は、編集庶務部長が編集局内の関係部長の意見を聴いて当該本社の編集局長及び局次長に上申し、次いで、各本社の編集局長で構成する局長会の審議を経て、役員会へは編集庶務部長名で再採用の申立手続をし、役員会がこれを決済していた。ところで、原稿係の勤務を日常観察する編集局内の関係部長等は、自身組合員であることも少くないし、非組合員であつても、会社の対組合職制には全く属さない者であるから、それら関係部長等が右の再採用手続で述べる意見には、不当労働行為的意図などの入る余地がないのである。

(6) 右(1)ないし(5)及び前記三の(一)ないし(四)を綜合すれば、原稿係の職種に特殊な若年停年制を採用することは、むしろ当然至極なのであつて、十分な合理的根拠が存する。もつとも、給仕的能力のみを雇い入れるということは、見様によつては、たしかに資本主義的であるが、他面において、この制度は、沿革的にも現在においても、前述のごとく、育英的性格を帯有し、働きながら学ぶ青少年に対し一生の目標を樹てる十分な準備期間と準備のための便宜(勤務割り等の点で)を与えるものであつて、その面における会社の配慮は極めて温情的である。安い労働力を安い間だけ使うというような冷酷な態度は、会社のとらないところである。

従つて、会社が就業規則において原稿係に対する本件停年制を設けたことは、何等経営権の乱用ではない。

(三)  申請人等主張の三の(四)について

憲法第一四条、労基法第三条にいう社会的身分とは、生来的な社会的身分を指称するところ、給仕は職種であつて、右にいう社会的身分に該当しないから、給仕停年制は右法条に違反するものではない。

(四)  不当労働行為の主張に対する反論

(1) 申請人等主張の三の(五)(1)について、

右主張事実は否認する。会社が給仕(原稿係を含む)停年制を採用したのは前叙のとおり戦前からのことであつて、申請人等の入社以前に属し、時期からいつても、右停年制の採用が組合活動家を社外に排除するためのものでないことは明らかである。

(2) 申請人等主張三の(五)(2)について、

会社が申請人等を組合活動をなしたことを理由に停年退社させたとの主張事実は否認する。停年は就業規則(または約定)による労働契約の終了原因であつて、本件の如く停年に達したときは当然退職するという定めである場合には該当事実の発生と同時に何等の意思表示を要せず雇用契約終了の効果を生ずるものであり、この点期間の満了、条件の成就による契約の終了の場合と同様でいわゆる解雇ではない。従つて、解雇を前提として不当労働行為と主張するのは当たらない。仮に、停年退職の措置自体が不当労働行為と主張する趣旨ならば、給仕の停年退職制はひとり申請人だけでなく、その職種に属するすべてのものに対し平等に適用されるのであるから、申請人等だけを特に不利益処遇したものではない。なお附言するに、

(イ) 戦後における原稿係の停年退職数は昭和二六年四名、同二七年四名、同二八年九名、同二九年二六名、同三〇年二九名、同三一年二〇名で漸次増加の傾向にあるが、その原因は戦後採用にかかる者は年少者が多く、従つて二五歳の停年に達するまでに一〇年の年月を要したこと(昭和二五年までは会社を通じ停年に達する予定者は毎年一、二名、多い年で五名にしかすぎなかつた。)と停年前に自己の都合または諭旨によつて退社する者が逐年減少したこと(これをパーセンテージで示すと別紙第四のとおりである)にある。しかして、昭和二一年五月以降新規採用停止の措置により社員採用の枠が狭隘である結果、停年退職者の数が増加するのは自然の成行であつて、それは決して組合弾圧による結果ではない。

(ロ) また、組合活動をした原稿係でその人物能力をかわれて社員に採用されている者がある半面、組合活動に不活溌ないし全く関心を示さなかつた者でも停年退社しているのであつて、会社が原稿係をその組合歴により差別した事実は全くない。

(3) 申請人等主張三の(五)(3)について、

会社が申請人等を再採用しなかつた具体的理由は別紙第六の(一)ないし(一六)記載のとおりであつて、組合活動をしたことを理由とするものではない。のみならず、労組法第七条第一号前段の不利益処遇は解雇されることがあるべき労働者、すなわち、既に雇用関係にある労働者に対してなされることを前提としているのであつて、未だ雇用関係のない者に対する処遇を含まないと解すべきであるから、申請人等の主張はそれ自体失当である。仮に、しからずとしてもその請求し得るところは従業員たる地位の確認ではなく、雇入という作為を命ずるものでなければならず、右義務が履行されて始めて雇用関係を生ずるに至るのであるから、本件は被保全権利を欠くものである。

(五) 申請人等主張三の(六)について

停年退職が解雇ではないことは前叙のとおりであるから、解雇を前提とする申請人等のこの点の主張は失当である。

以上の次第で、申請人等の主張はすべて理由がないから、本件申請はいずれも失当である。

第四、疏明関係〈省略〉

理由

申請人谷が昭和二〇年一二月二五日、同西田が同年一一月二六日に被申請人会社大阪本社に入社したことは証人角谷市太郎の証言により成立を認められる乙第二〇、第二一号証により明らかであり、申請人萩原が昭和二一年九月に会社大阪本社に、以上の申請人等を除くその余の申請人等が別紙目録(一)記載の各年月日に同目録記載のとおり会社東京本社ないし大阪本社に各入社したこと、申請人等が入社後いずれも原稿係として編集局各部に配属勤務していたこと、会社が申請人等主張の各年月日に申請人等に対し会社就業規則第四七条、第四八条ならびに同付属規定「停年、停年休職規定」及び同付則(ただし、申請人近藤については右付則の適用を除く)を各適用し、申請人近藤については満二〇才、その余の申請人等については満二五才の給仕停年該当を理由に停年退職の通知をなしたことは、当事者間に争がない(もつとも、右通知がいわゆる解雇に当たるか否かについては当事者間に争があるが、この点はしばらく別とする。)。

よつて右停年退職が無効であつて、申請人等が現在なお会社従業員たる地位を有し、賃金債権を有する旨の申請人等の主張の当否につき、順次判断する。

第一、右会社就業規則ならびに同付属規定「停年、停年休職規定」及び同付則の条項が申請人近藤を除くその余の申請人等一五名の労働契約を一方的に不利益に変更したもので、同申請人等に対する関係で無効であるとの主張について

労基法のもとにおける就業規則は、使用者が企業所有権の一内容ともいうべき経営権に基き、一方的に事業場における労働条件の最低基準を劃一的、統一的に定立するもので、労働保護法の目的実現のために法規範性を認められたものと解すべきであるが、就業規則の制定、変更により既存の労働契約の内容を一方的に労働者側の不利益に変更することは、労働者側の同意がない限り、労働条件の労使対等決定の原則(労基法第二条)に照しても、また労基法第九三条の反面解釈からいつても、許されず、かような就業規則条項は当該労働者との関係では無効と解するのが相当である。

そこで、前記申請人等の労働契約がいかなる内容を有していたかについて検討する。この点に関し、会社側の代理人は、会社の第一次就業規則の実施された昭和二三年三月一日前には朝日新聞社人事内規が存在し、これが当時の就業規則として、法規範的に又は附従約款的に作用していたものであつて、会社の身分制撤廃前に入社した申請人神田を除く他の申請人等十一名は、入社当時、定限年令満二〇才の適用を受けていたが、身分制撤廃に伴う措置によりその定限年令を満二五才に改定されたものであり、身分制撤廃後に入社した申請人神田は、入社当時から満二五才の定限年令の適用を受けていたもので、この人事内規上の満二五才の定限年令が、会社の第一次就業規則を経て、現行就業規則に踏襲されているものであり、したがつて、第一次就業規則の実施時代に入社した申請人北条、伊藤及び富島の三名もその定限年令は満二五才であると主張し、これら申請人一五名につき、その定限年令の明示と合意のあつたことを主張する。これに対し、申請人側の代理人は、かかる人事内規は、職制限りの人事取扱い上の内部的基準であつて、従業員を拘束する法的効力を有しないのみならず、会社の身分制撤廃前、すでに、原稿係を一般社員に昇格させるのが社内慣行となつていたものであり、身分制撤廃と同時に、原稿係も一般社員同様、その停年は満五五才となつたものであると主張し、第一次就業規則の効力をも争い、会社側のいう定限年令の明示や合意の成立を否認するのである。そこで、会社側のいう第一次就業規則の実施前に入社した申請人小野以下一二名(前記申請人一五名より北条、伊藤、富島の三名を除いたもの。これを第一グループという)と第一次就業規則の実施中に入社した申請人北条以下右三名(第二グループという)に分けて、考察をすすめる。

一、まず、右申請人等一五名は、共通の主張として、会社入社に当り、一般社員と同一内容の終身雇用の労働契約を会社との間に締結した旨主張するけれども、この点を疏明するに足る資料はない。従つて、右内容の労働契約を締結したことを前提とする右申請人等の主張は理由がない。

二、第一グループに属する申請人小野以下一二名の労働契約の内容について、

右申請人等一二名は前記内容の労働契約を締結しなくても、同申請人等に対しては一般社員同様の五五才停年が適用になる旨主張するので審究するに、

(一)  証人山本健二、印藤和男の各証言(併合手続前)、右申請人等のうち萩原、池田を除いた他の申請人等一〇名各本人の供述、右各本人(森本を除く)の供述によりそれぞれその成立が認められる甲第一九ないし第二二号証、第二五ないし第二八号証、第三三号証、成立に争のない甲第五〇号証、乙第一七、一八、二二、二三、三八、三九号証、証人角谷市太郎の証言により成立の認められる乙第二〇、二一号証、弁論の全趣旨に徴して成立の認められる甲第三〇号証、乙第一九号証に証人矢島八洲夫の証言を綜合すると、申請人小野以下右一二名の採用時における各人別状況、学歴等は次のとおりである。

1、申請人小野は、将来鉄道職員を志望して四年制の私立昭和高等鉄道学校の二年に在学中、家計補助の必要が生じたので、働きながら就学できる職場を求め、昭和二〇年一月一八日頃友人の岡田賢蔵(昭和三〇年に停年退職した原稿係)に誘われるままに、誰の紹介もなく、二人で会社の東京本社を訪ね、同受付の連絡によつて深沢編集庶務課長から家庭の事情や学校関係を聴かれる程度の簡単な面接を経ただけで、同月二〇日付で編集総局の原稿係として採用された。身体検査もなく、誓約書も出さなかつた。採用当時、深沢課長から「君達が頑張れば、将来朝日新聞社の記者として第一線に出ることもできるから、大いに頑張つてくれ」と励まされ、採用後約三カ月間は右鉄道学校に通学しながら夜勤の原稿係を勤めていたが、その間社内の先輩から「将来新聞社で働くなら鉄道学校より中学へ行つた方がよい」といわれ、考慮の末、新聞社に入つた以上は新聞社で身を立てようと決心し、その後、都立上野中学校の夜間部に転校し、じらい昼の原稿係にかわつた。採用当時、満一四才の少年で、最終学歴は中央大学文学部英文科二年中退。小野は右採用時にも転校当時にも原稿係の二〇才停年をきいたことはなく、もしそのような停年制のあることを知つていたら絶対に朝日に入社しなかつたであろうといつている。

2、申請人西田、森本は、昭和二〇年一一月中頃会社の原稿係の縁故募集に応じ、大阪本社の八尋編集庶務課長の簡単な面接と身体検査を経て、同月二六日原稿係(雇員)に採用されたもので、当時八尋課長から「希望をもつて一生懸命働いてくれ」と励まされたが、原稿係の停年のことは全然きかなかつた。採用時、西田は満一四才、森本は満一二才の各少年で、最終学歴は、西田は浪華商業高等学校一年中退、森本は関西大学文学部哲学科(夜間)二年中退。

3、申請人谷は、大阪本社の活版部次長福井長三氏の紹介で昭和二〇年一二月二三日前記八尋課長と面接し、翌二四日原稿係として採用されたが、原稿係の二〇才停年のことはきかなかつた。採用時、満一四才の少年で、最終学歴は浪華商業高校二年中退。

4、申請人山本は、昭和二一年三月国民学校高等科二年に在学中、大阪本社から学校経由の給仕募集に応募し、申請人印藤はその頃大阪工業学校(後の大阪商業高校)の二年に在学中、大阪本社に勤めていた友人からきいて右募集に応じ、右申請人等は編集、業務及び印刷の各局の給仕を一括した雇員採用入社試験(筆記試験と面接)を経て、同月一一日原稿係として採用されたが、当時原稿係の二〇年停年のことは全然きかなかつた。採用当時、いずれも満一四才の少年で、最終学歴は、山本は同志社短大中退、印藤は関西学院文学部社会学科卒。

5、申請人池田は、昭和二一年三月国民学校高等科の卒業を控えて、ある会社の入社試験に合格していたが、同級生の酒井隆道(申請人印藤等と同時に大阪本社に採用された人)から朝日新聞社に来ることをすすめられ、朝日の方が将来性があると考えて、同月一三日頃前記八尋課長から簡単な学科試験と面接を受け、身体検査を経て、その翌日から原稿係として採用されたが、当時原稿係の特別の停年制については全然きかなかつた。採用時、満一四才の少年で、最終学歴は浪華商業高校二年中退。

6、申請人立石、田中、笠木は、昭和二一年二月頃東京本社から学校(国民学校)経由の印刷局員募集に応募し、その入社試験(学科試験、面接及び身体検査)に合格し、印刷局員見習として採用されることになつていた。ところで、立石は合格通知を受けて印刷局に出社した際、職制に対し、夜間中学へ通学したい旨の希望を申し出たところ、これを拒否されたので、入社辞退を申し出た。すると、同職制から、「朝日新聞社にも昼間勤めて夜間中学へ行けるところもある。一寸待て」といわれて、編集局庶務部の今井原稿係主任に紹介され、同主任から「編集局では夜学にも行けるから来ないか」とすすめられたので、これを承諾し、同年四月一日原稿係として採用された。申請人田中、笠木は、印刷局員に採用されて同年四月一日印刷局に出社し、作業服も受取つたところ、立石のように編集庶務へ移ることを承諾していた四人の中二人が希望を撤回した関係から、印刷局の職制が当日一堂に集まつた新入の印刷局員見習に向かつて、「この中に編集庶務へ行く希望者はないか」ときいた。田中、笠木の両名は、学校の先輩で印刷局の庶務部にいた渡辺という人から、「編集へ行つた方が将来性がある」と教えられたので、職制に編集庶務へ移ることを申し出て、作業服を返上し、右同日付で原稿係として採用されたもので、その際あらためて試験はなかつた。これら申請人三名は印刷局から編集庶務へかわるとき、いずれも原稿係の二〇年停年のことは全然きかなかつた。入社当時、いずれも満一四才の少年で、最終学歴は、立石は中央大学文学部史学科二年中退、田中は明治大学政経学部卒、笠木は明治大学文学部四年中退。

7、申請人萩原は、疎開して岡山県金川中学に在学中、大阪本社の編集庶務部長をしていた知合の田中予章氏から、朝日に入社するようにすすめられ、昭和二一年九月二二日頃上阪し、同部長から次長の八尋氏等に引き合わされ、右次長に成績証明書、在学証明書を提出して、簡単な面接試験を受け、同次長に「一生懸命やれば記者になれる」と励まされ、身体検査を経て、合格と決し、翌二三日から編集局原稿係として採用されたものであるが、採用当時も、その後数ケ月右田中予章氏方に下宿して通勤している間にも、原稿係の停年についてきいたことはなかつた。当時満一三才の少年で、最終学歴は立命大、法学部三年中退。

8、申請人神田は、疎開先の岡山県下で中学に在学中、東京本社に勤めていた伯父の神田三郎(現在木更津通信局長)を通じて、伯父の友人で大阪本社動務の川戸実氏に紹介せられ、昭和二一年一二月一三日頃前記編集庶務部長の田中予章氏、原稿係主任の甘野秀太郎氏等に成績証明書を提出して面接を受け、翌一四日編集局原稿係に採用されたものである。当時は会社の身分制撤廃直後であつたが、原稿係の停年が二五才とか、一般社員との間に停年の差別があることなどは、きかなかつた。伯父からは、川戸氏も若い時から給仕として働いて今日に至つている人だときいていたので、申請人神田も川戸氏のように昇進する希望を抱いて入社したものであつた。当時は満一五才の少年で、最終学歴は近大別科卒(新制高校卒の資格)。

会社側の代理人は、右申請人のうち神田を除いた他の申請人一一名の入社当時の定限年令が満二〇才、申請人神田のそれが満二五才であることは、採用当時、担当の職制から明示され、定限年令に関する合意が(明示的又は黙示的に)成立したものであると主張するけれども、証人夏目小一郎、角谷市太郎、市川重雄の各証言中、右主張に副う趣旨の証言部分は、前掲各証拠ならびに後記の(二)の説示に照して信用し難く、他に右主張事実を認めて前記の認定を動かすに足る的確な資料はない。

(二)  証人角谷市太郎の証言により成立の認められる乙第一、五、九、一三号証、証人斎藤一の証言により成立の認められる乙第五八号証、第五九、六〇号証の各一ないし四、証人市川重雄の証言により成立の認められる乙第八四号証の一ないし一四、第八五、八七号証の各一ないし七、第八六号証の一ないし一七(但し、そのうち、一、二、三、四、七、八、九、一一、一六、一七は各(イ)(ロ)を含む)、第八九号証の一ないし四、証人矢島八洲夫の証言により成立の認められる乙第二六号証の一、第一四八号証、弁論の全趣旨に徴して成立の認められる乙第八号証、第一〇九号証の一ないし三、第四五号証(みつまめ随筆七七頁参照)、第四六号証、第一五七号証の一ないし三、第一六、七六号証、第一〇〇号証、第一〇一号証の一ないし三、第一四五号証、第八一号証の一、二、第一五号証、第一四七号証の一、二、甲第一七、三二号証、成立に争のない乙第二四、二五号証、第四〇、四一号証の各二、第八八、一三六、一四九号証、甲第八号証、第三八号証の一、二と証人夏目小一郎(一部)、矢島八洲夫(一部)、角谷市太郎(一部)、平松儀勝(第一回)、市川重雄(一部)、西川新造、山本儔、八木覚雄、鈴木益民、小林大介、萩原清治、辻中義雄の各証言、申請人小野義昭、神田謙二各本人の供述に前記(一)に認定した事実ならびに弁論の全趣旨(ことに被申請人提出の第一〇準備書面添付の別表第一、第三表参照)を綜合すると、次のとおり認定することができる。

1、人事内規上の身分制と給仕(原稿係を含む)の停年制及び昇格制

会社は昭和八年一二月二〇日「朝日新聞社人事内規」を制定実施し、従業員の身分として従来から存していた社員、准社員、雇員の身分制をそのまま存置し、社員、准社員をもつて充てる記者、事務員及び技術員等の企業の基幹要員の採用について入社試験制度の原則を確立するとともに、従業員の停年制(社員停年制はすでに昭和七年九月頃より実施されており、又雇員の中の給仕については、昭和四年五月「給仕採用に関する内規」を制定して、若年停年制が布かれていた)を設けて、従業員の新陳代謝を計つた。すなわち、右人事内規によると、従業員の新規採用の条件として、社員は、三〇才未満で大学又は専門学校を卒業した者で社員採用試験に合格し、社員練習生に採用せられ、一カ年の練習期間を経、成績良好なるもの、准社員は、三〇才未満で大学又は専門学校を卒業した者で練習生採用試験の全課程を経、又は詮考の上、准社員試用に採用せられ、一カ年以上の試用期間を経て成績良好なるもの、雇員は、二〇才未満で中等学校を卒業した者で事務雇員採用試験又は詮考に合格し、三カ月以上の試用期間を経、成績良好なるもの、雇員の中の給仕は、満一六才(昭和一六年当時は満一八才)を超えない者で体格検査に合格し、詮考の上、三カ月以上の試用期間を経、成績良好なるものと定められ、給仕には、小学校尋常科(後に国民学校)を卒業したばかりの少年を採用するのを常態とし、定限年令(以下、停年という)は、社員満五五才、准社員及び雇員は、次に述べる者を除いて、満五〇才、給仕満二〇才、(但し、女子給仕は満二五才)、庶役満五五才、その他の女子満四五才とし、停年に達した従業員は退社させるものとした。しかし、右人事内規は、右のように入社試験制度を常態の原則として停年制を採用する一方、他方では、雇員及び准社員で勤務成績が良く、左の勤続年限を経過した者は准社員に昇格させることが認められていた。すなわち、雇員のうち、国民学校卒業者は勤続五カ年以上、中等学校卒業者は概ね勤続三カ年以上、大学卒業者は勤続一カ年以上でそれぞれ准社員に、国民学校卒業者で雇員より准社員に昇格した者は在職五カ年以上、中等学校卒業者で雇員より准社員に昇格した者は在職三カ年以上、大学卒業者で雇員より准社員に昇格した者は在職二カ年以上でそれぞれ社員に昇格させることができるものとされていた(右内規第九条。以下、これを昇格規定又は昇格制度という)。従つて、国民学校を卒業して編集局給仕に採用された者にも、その成績、位置、学歴等を勘案されて、准社員、社員に順次昇進して行く道が開かれていた。これが前記の常態の原則に対して、特別の昇格制度として扱われていた。

原稿係というのは、編集局関係の給仕のことで、当初は給仕と呼称されていたが、昭和一八年九月二三日、いわゆる男子就業禁止令により、一四才以上四〇才未満の男子が給仕という職種に従事することを禁止され、その職種に従業する右の男子が徴用の対象とされた関係から、会社が徴用を避けるため同年一〇月二一日より編集局給仕を原稿係と改称したもので、戦後は原稿係、編集局給仕の二つの呼称が随時併用されている。

2、人事内規の法的性格について

右の人事内規は従前会社に行われていた人事規定をも合せて集大成し、従業員に対する人事を右内規により取り扱う趣旨で、会社役員会の議を経て定められたもので、その内容は従業員の身分、採用、昇格、年令定限、給料及び手当、休職及び退社、勤続表彰等に及び、制定当時従業員にその要綱が発表され、停年制についても、その全部が発表掲示された。その後会社従業員の人事取扱は停年制及び昇格制を含め概ね右内規に従つて取り扱われ、改正が行われた際も、終戦前にはその都度、社員、准社員に配布されていた朝日社報に内規改正があつた旨が掲載され、その要綱は人事担当の職制から各局部課長を通じ従業員に周知方の措置が講ぜられるよう、通達を出していたことが認められる。しかし、その周知方の措置がどの程度に徹底していたかについては、工場法の適用を受けない編集局関係の従業員に関する限り頗る怪しいのであつて、記者でさえ人事内規の内容を知らない者が多数存する事実(この点は、証人木村照彦、清水博、松井透、木俣博の各証言により認められる)に徴すれば、社報すら配付されない年少の編集局給仕が人事内規の内容を知らないとしても、無理からぬところである。しかも、終戦前は会社に労働組合はなく、人事内規の制定変更は、会社が従業員側の意見を聴かないで全く一方的になし得るところとされ、又そのようになされてきた。以上の諸点に徴すれば、労基法施行前に労働組合又は従業員側の意見を聴かずに全く一方的に制定変更され得る会社の人事内規は、労基法下の就業規則制度とは異なり、当然に法規範性を有するものではなく、その規定の内容が集団的、継続的に企業内に行われて慣行としての性格をそなえ、この慣行が法的確信に支えられて、具体的な慣習法として、会社と従業員間の労使関係を規制するに至つて、はじめて、法規範性を有するに至るものと解するのを相当とする。

3、編集局給仕(原稿係)は採用時、停年制を告知されていたか、会社は編集局給仕の採用に際して、東京本社の編集局では、右人事内規の実施当時から昭和一四年八月頃までの間は、満二〇才に達したときは退社する旨の誓約書を差入れさせて、その停年制を告知していたことが認められる。しかし、大阪本社では、昭和一三年頃には、編集局給仕の採用に際して停年制を告知していなかつたことが認められ、東京本社でも、その後は給仕停年制を告知しないようになつたことがうかがわれる。すなわち、この時期は、あたかもわが国が准戦時体制から戦時体制へ移行する段階で、各産業において労働力の不足を来たし、労務者の広汎な移動の起こる時期に相当し、右時期以降になると、会社においても、編集局給仕で停年前に依願退社する者が続出し、しかも入社後漸く仕事に習熟した一、二年目に退社する者がその過半を占める有様で、それらの給仕は、時局の要請と相い俟つて、給与のよい軍需産業へ移動し、前記男子就業禁止の非常措置のとられた後は、男子の代替として多数の女子を編集局給仕に採用したが、女子がこの労働に適しない面もあつて、その入退社は実にめまぐるしく、さして能率を期待し得ない状態であつた。編集局給仕を原稿係と改称したのも、この種の労働が新聞製作に不可欠のものであつた関係から、これに男子労働力を保持しようとしたものに外ならない。このようなわけで、この時代には、編集局給仕についても労働力の不足を来たし、その傾向は戦局の深まるにつれて愈々その烈しさを増してきたので、従来の労働人口過剰時代にとられていた労務管理の方法を踏襲していては、所要の人員を求め得ない情勢にあつた。もし、この時代に給仕採用に際して満二〇才の停年制など告知していては、到底人を得られなかつたであろう。従つて、会社が、前示のごとく、編集局給仕を採用するに際して満二〇才の停年を告知しないようになつたのも、そこには時局下の労働力不足に対処するための労務管理的意図が働いているものとみるのが相当である。この時期に停年前依願退社の給仕の数が多数に上つたことの理由を給仕の若年停年制に帰する会社側の考え方は、前記及び後記4で認定する会社のこの時代における労務管理の方法に徴して、妥当でない。

戦後においても、終戦当時から昭和二一年中にかけて原稿係の労務移動が頻繁で、原稿係に人手不足を生じた関係から、会社側は、原稿係の採用に際して、戦時中の労務管理の方法を踏襲し、給仕停年制を告知することなく、その採用は、後記4で述べる社内慣行に則つて行われたものということができる。証人夏目小一郎、角谷市太郎、市川重雄の各証言中、右認定に反する趣旨の発言部分は、前掲の他の証拠に照して信用し難く、他に右認定を動かすに足る資料はない。

4、編集局給仕(原稿係)の停年制及び昇格制の実施状況

(イ) 前記人事内規の実施当時から昭和一五年頃までの間は、編集局給仕が停年で退社する事例もいくつか見受けられるがその半面、会社は、昭和一二年頃には大学在学中の給仕に対し約三カ年の停年延長措置を講ずるほか、停年前又は停年(延長され停年を含む。以下同様)と同時に前記の昇格規定を適用して上級の身分に昇進させた事例も相当の数に上つていた。しかるに、右のように、編集局給仕に労働力の不足を来たすに及んで、会社は、その労務管理に力を注ぎ、その採用に際して給仕停年制を告知しない方針をとる半面、昭和一六年頃以降は給仕の勤続を奨励し、その勤労能率を昂揚するため、前記人事内規の昇格基準に一応該当する者は、能力とか勤務成績の高低にかかわりなく(但し、余程質の悪い者は諭旨退社させていた)、殆んど一律に、停年前又は停年と同時に、昇格規定を適用し、大阪本社では、中等学校を卒業した給仕はすべて補助員又は事務雇員に、東京本社でも殆んどすべて、給仕でない雇員又は准社員に昇格させていた。(東京本社において、乙第八七号証の六の前沢泰三、乙第五八号証別表の新井好男、刈部浩一及び斎藤実の計四人が停年退社の事例として認められるが、刈部は大学工学部卒のため就職が制限されていたともみられ、又斎藤は入営のやむなき事情にあつたのであるから、右両名の停年退社は、停年以外の不可抗的事由によつてやむなくとられた措置とみることができよう)。このような、殆んど全面的、劃一的な昇格扱いは、戦時下における会社の、次のごとき人事機構の改革にも照応するものであつた。すなわち、会社は、昭和一七年一一月機構を改めて全社一本の人事局を設け、東京、大阪、西部の各本社に人事部(但し、西部は人事課)を置き、人事局長は毎年六月、一二月の二回に従業員の身分進級案を作成し、給仕を含めて雇員関係については、その進級案に基き、所属の当該局長と協議の上、社長の承認を経て、一括してその身分進級を実施するに至つた。

従つて、給仕停年制を告知されずに入社した編集局給仕は、中等学校を卒業したり、その勤続年限等によつて、いわば自動的に、一律に、昇格昇進するものと感得するようになり、しかもその昇格昇進が停年の点で終身雇用型の停年制に転移するという重大な意味及び影響を持つことは、全然意識されなかつた。もつとも、給仕は、昭和一四年六月二七日頃から、後記の身分制の廃止に至るまでの間は、補助員、事務雇員等に昇進昇格したときに、退職手当を精算支給されていたが、そのような人事取扱は、事務雇員が准社員に、准社員が社員に各昇格した場合にもなされていたのであつて、それは勤続手当とも呼ばれ(乙第一五五号証参照)、それぞれの身分によつて給与の基準に段差が設定されていたことに対応するにすぎない。従つて、給仕が昇進昇格したときに退職手当を支給されていたからといつて、そのことの故に、給仕が昇格の際一旦退社したとか、給仕停年制の存在を意識していたとかの証左となすに足りない。

(ロ) 右のような昇格制実施の必要は、戦後、海外引揚者、復員者、出向者等の社内復帰により企業内の人員が膨張したため、会社が昭和二一年五月三〇日従業員の新規採用停止の措置をとつた以後においても、引き続き認められ、給仕の昇格に伴う人員補充は特に考慮すべきものとして、そのとおり実施されていた。

(ハ) 戦後いち早く会社の東京、大阪、西部の各本社にそれぞれ従業員より成る労働組合が結成され、次いで昭和二一年二月個人加入の形式で新聞単一を結成するとともに、同年七月新聞単一朝日支部を組織し、会社の三本社の従業員がはじめて一つの組織に統一され、賃上等に関して活発な組合活動を展開していたが、会社が同年一二月一日身分制を撤廃した前頃、当時朝日支部の青年部の役員をしていた山本儔(昭和一五年、大阪本社に編集局給仕として入社。その後一旦退社して戦後再入社、当時大阪本社編集局の事務雇員)は、同僚の柴崎久一から、編集局給仕に停年制のあることをきいたので、外二名と一諸に大阪本社代表の西村道太郎取締役にその点をただしたところ、同代表から「人事内規には給仕の停年規定があることはあるが、しかし、今まで諸君の間で首になつた者があるか。学校さへ出れば、諸君たちは中堅になつてもらわなければならない。そういう今までに実例がないようなことを心配しなくてもよいから、真面目に仕事をして学校へ行くように」との言明があつた。右山本は、西村代表の回答如何によつては、組合の青年部の問題として取り上げようと考えていたが、西村代表から右の回答を得たので、別に組合の問題にしなかつた。

5、以上1ないし4を綜合して、まずいい得ることは、会社の人事内規上の給仕停年制は、その規定面において、社員の満五五才停年又は准社員及び給仕でない一般雇員の満五〇才停年の一般停年制とは、その自然年令の点で、大きな相異が存するばかりでなく、前記昇格制度の併置によつて終身雇用型の右の一般停年制へ転移する道が開かれている点で、社員、准社員及び給仕でない一般雇員の停年制と本質的に異なる要素を持つていることである。次に、社員、准社員等の入社試験制度の原則と相い俟つて、人事内規制定当時は、給仕停年制が人事取扱い上の常態の原則とされ、その昇格規定は右の原則に対する特別の抜擢制度とされていたのであるが、その時代あるいはその時期の雇用事情、労働力の需給関係により、給仕の停年制及び昇格制が極めて弾力的に運用され、その実施状況に徴すると、会社側は、人手不足、勤労意慾の推進等の労務管理上の必要に基いて昭和一五年頃(大阪本社では昭和一三年頃)から戦後の狂瀾怒濤の時代にかけては、編集局給仕(原稿係)の採用に際して、給仕停年制を告知しなかつたのみならず、これと相呼応して、昭和一六年以降は、人事内規上の給仕停年制を適用実施しないことが社内の不文律的慣行となる半面、人事内規上の昇格規定を緩和して適用し、編集局給仕(原稿係)を上級の身分に昇格昇進させることが支配的な社内慣行となつていたものということができる。従つて、また、かかる社内慣行のもとにおいては、編集局給仕あるいは原稿係として雇用された場合でも、人事内規の定める満二〇才の年令に達することによつて直ちに従業員としての地位を失うことを労働条件とするものではなく、前記昇格基準に一応該当するまでは給仕としての仕事に従事させ、本人がその間に中等学校以上の学業を修めるとか、国民学校卒業者でも大過なく勤続五カ年以上を経過すれば、該昇格基準を緩和して適用し、編集局給仕あるいは原稿係としての地位から補助員、事務雇員その他の上級の身分に昇進昇格させ、会社の従業員として継続雇用することを労働条件として採用されたものとみることができる。

6、身分制の廃止と給仕(原稿係を含む)停年制の帰趨

(イ) 会社が昭和二一年一二月一日、社員、准社員、雇員の身分制を廃止したこと及びこれにより准社員及び給仕でない一般雇員の停年が、社員と同様満五五才に改定されたことは、いずれも当事者間に争がない。会社側は、右身分制廃止に伴う措置として、給仕の停年は、男女平等の見地から、従来の女子給仕の停年に統一して、男女とも満二五才と定めたと主張するので、以下、この点について検討する。

(ロ) 会社は、戦後における社内外の澎湃たる民主化の風潮に支配されて、昭和二一年一月に昭和一六年一月以来実施していた理事、参事、副参事の社員特別身分制を廃止したのに引続き、昭和二一年一二月一日をもつて、数十年来の伝統を有する社員、准社員、雇員の身分制の撤廃を断行し、同月一〇日付の朝日社報(甲第八号証、乙第一四九号証)に「十二月一日より身分制廃止」、「准社員、雇員の名称は消える」という大、小の見出しのもとに「本社では民主化の声応じさきに理事、参事、副参事の身分を撤廃したが社員、准社員、雇員という三階級の身分制は依然として残されており、バツヂから旅費、まかない料に至るまで厳然たる区別が行われている始末、そこで十二月一日この最後の身分制も撤廃され、民主化の本格的前進をみることになつた。これで雇員だつた人人も下積みという身分意識から解放され、昨日入社したばかりの給仕さんや見習の工員さんも部課長や古顔の先輩と身分は同一、一従業員として明朗な気持で社務に従事することになつたわけである」と報じ、これを全従業員に配付し、会社の昭和二四年一月二五日発行にかかる朝日新聞七十年小史(三三〇頁、甲第三八号証の一、二)もこの点につき、「これで昨日入社した原稿係も、局、部長と身分は同一となつた。」と記述している。

(ハ) そこで、従来の身分制による差別扱いを概観すると、社員、准社員、一般雇員、給仕雇員について、新規採用条件、停年制及び昇格の条件に関し前記(二)の1で述べたような区別があるほか、給与面(給料の月額は、社員は最低六〇円から五〇〇円、なお主筆等は役員会が別に定める、准社員は六〇円から最高一五〇円まで、雇員は二一円から最高一二〇円、但し給仕は最高限四五円。初任給は、社員練習生は七五円、准社員は六五円又は七〇円、雇員のうち、事務ならびに技術に従事するものは、学歴別に応じて二四円以上から四五円以下、給仕は最低二〇円標准二三円。以上は昭和一六年一二月一五日現在の人事内規による。以下同様)、休職期間(社員、准社員には勤続年数の区分に応じて休職期間があるが、雇員は勤続三カ年以上の者でないと与えられず、さらに右三者の勤続年数に対して与えられる休職期間の長さに差別がある)、社員停年休職給(准社員、雇員にはこれに相当する規定がない)、単身赴任手当に差別扱いが存し、社員、准社員はバツヂ、社員手帳、朝日社報の配付ならびに新聞の無代配給を受けるが、雇員はかかる待遇に浴しなかつた。そして、同じ雇員の中でも、一般の雇員と給仕との間には、新規採用条件、停年制、昇格条件、給与面において前述のような区別があり、又そのような差別扱いがあるからこそ、給仕より補助員、事務雇員(大阪本社の場合)又は給仕でない雇員(東京本社の場合)に昇進するとき、一般の雇員又は准社員が准社員又は社員に身分昇格する場合と同様、身分昇格に伴う退職手当(勤続給)を精算支給され、その昇進が人事取扱い上、一般に身分昇格、身分進級と考えられていた。従つて、前記人事内規ならびに採用、昇格に関する社内慣行に徴して厳密にいえば、会社の従業員には、社員、准社員、一般雇員及び給仕雇員の四つの身分が設定されていたとみることができる。

(ニ) ところで、かかる身分制は、(1)従業員の序列確立、(2)給与面の段階による差別、(3)下級身分より順次累進させる昇格制による従業員の勤労意欲の昂揚等の諸点に、その存在理由を有するものとされていたが、戦後の社会情勢によつて、これらの存在理由はいずれも薄らぎ、社内明朗化のためには、むしろこの制度を廃止するのを適当とするに至つたとされ、しかも、その廃止の理由として、(1)従業員の序列秩序は各人の社歴、年令により自ら整然として乱されまい、(2)給与面では、社会経済情勢から生活給的要求が最も強く、身分差よりも一律化の傾向を考慮さるべきこと、(3)各人の待遇は、身分差はなくとも、個々の才能、技能、能率、社業への貢献度等により自らそれぞれの位置に落ちつけられる、(4)勤労意欲の推進は、現在の情勢下では、身分の昇進よりはむしろ適正公平な待遇改善によつて得られる、(5)最近の身分制による昇格の実情は、従業員の才能、力量によらず、もつぱら入社の同期、年令等によつて査定され、必ずしも適正公平な昇格が行われない傾向にあることなどが、考えられていた。そして、当時すでに、人事取扱い上の多くの規定や給与面においては、身分制が存するにかかわらず、身分に捉われず、又身分上の差が縮められてきて、給与のごときは、勤続年数、年令、給与段階、職務等を勘案して決められる方法に改正されていたのである。(後記(リ)の労働協約六条参照)。これらの諸点ならびに前記(二)の5に認定した編集局給仕(原稿係)に対する人事取扱い上の昇格に関する社内慣行に徴すると、雇員たる給仕(原稿係を含む)と給仕でない一般雇員、准社員及び社員との間に、前記の身分制廃止当時、すでに、実質上さほど大きな労働条件上の相異はなかつたということができる。停年制についても、満二〇才に達したときに企業外へ排除することを本義とする給仕停年制は、身分制廃止当時、その機能を失つていたのである。従つて、身分制廃止後も、給仕についてだけ、差別的な若年停年制を存置させる実質的理由に乏しかつたといわなければならない。

(ホ) 会社側は、満二五才を停年とする給仕停年制は、職種による等差ないし区別として残されたというのであるが、身分制が廃止されるまでは同じ雇員の中でも、給仕でない一般雇員と給仕との間に身分差があるものとして、人事上の取扱がなされてきたことは、前記(ハ)で述べたとおりであつて、給仕という職種、職名もさることながら、又、従来の給仕停年制が、前述のごとく、身分制廃止当時形骸化していたとはいうものの、前記のごとき人事内規上の給仕に対する差別的な若年停年制と結合した昇格制が、学歴、入社試験の有無、給与面における段差と相い俟つて、会社側においても、給仕雇員という身分を形成する一要素として思考し、給仕自身の立場からしても、一番下積みという身分意識を伝統的に植えつけられてきたものに外ならない。別言すれば、従来の給仕停年制は、必ずしも職種による等差として考えられていなかつたのである。のみならず、前記身分制廃止が戦後の社内外の民主化の澎湃たる風潮、会社の労働組合(新聞単一朝日支部)による組合員の生活権の確立を目指した賃上攻勢に支配されて会社数十年来の制度の撤廃に踏み切つたものである点に想到すれば、右廃止当時において、組合員である給仕につき、会社側が職種を理由とする差別扱いをなし得たかが、そもそも疑問である。現に、右身分制廃止の頃、会社と新聞単一朝日支部との間に、戦後における第四次待遇改善交渉が持たれ、朝日支部はその交渉において、従来の一率方式の、いわゆる「単純増額」型の給与改善とは異なる、いわゆる「上に薄く下に厚い」「逓減増給」方式に則つた、劃期的な給与協定をかちとつたのであつて、この事実からしても、その当時においては、職種による従業員の差別扱いがいかに至難の業であつたかが、うかがわれるのである。

さらに、身分制廃止当時の大阪、東京の各編集局における原稿係と原稿係でない編集庶務部員との執務状況に照らしても、会社側の主張するような、職種による差別扱いは、無理であつたと思われる。すなわち、前記昭和二一年五月三〇日以来とられた会社の従業員新規採用停止の措置に伴い、原稿係に非常な人手不足を来たし、その前後において原稿係から補助員、事務雇員又は給仕でない雇員に昇格した二〇才前後から二十四、五才の者が編集庶務部員として編集局の各部に配属され、概ね年少の原稿係たちと同じ職場で同じ仕事に従事し、先輩後輩という意識でつながつていた。もつとも、かかる現象が前記の新規採用停止に伴う変則的なものであつたにしても、当時における執務の現況下においては、それが職種による等差を理由とする差別的な給仕停年制存置をさまたげる事由となり得たであろうことは、確かである。

(ヘ) 前記身分制の廃止により、人事内規の上で准社員、雇員に認められていた前記昇格制度は消滅し、従つて、給仕より補助員、事務雇員等の一般雇員、准社員、社員に順次昇進することが認められていた従来の前記昇格制度も廃止となつたわけである。しかも、身分制廃止に伴う措置として、給仕が一般社員に昇進する道を開く規定が設けられた形跡はうかがわれない。しかるに、会社側のいうような、満二五才を停年とする給仕停年制だけが存置されることになれば、給仕は、規定上、一般社員へ昇進する道を奪われることになる。同じく昇格制度の廃止といつても、その意義は、給仕と給仕でない一般雇員や准社員とでは、全然異なつたものとなる。給仕でない一般雇員や准社員は、社員と同じ待遇に浴するから、昇格制度をおく必要が自然消滅したのであるに反し、給仕にとつては、名は社員と呼ばれても、一般社員に昇進して満五五才停年の適用を受ける道を閉ざされてしまうことを意味する。かかる給仕停年制による労働条件は、昇格制の併置された従来の人事内規上の給仕停年制に比して不利となることが明かである。すなわち、昇格制度を断ち切られた給仕停年制は、昇格制の併置された従来の給仕停年制と法的構造を異にし、昇格制を廃絶して昇格による継続雇用をなくし、一旦退社、再雇用再採用という観念を導入する契機を包蔵し、従つて、従業員の人事異動に対する労働組合の関与(後記の(リ)で述べる労働協約三条参照)を排して、企業外への排除を本義とする停年制本来の機能を容易にするものである。そればかりでなく、かかる給仕停年制は、前記(二)の5で認定した社内における昇格の慣行を無視するものであつて、給仕にとつて不利なものであることが、愈々明かである。給仕にとつて、このような不利な改定措置がとられているとすれば、会社は、前記社報の報ずるごとく、「昨日入社したばかりの給仕さん……も部課長や古顔の先輩と身分は同一」となつたとして、「下積みという身分意識から解放され」、「一従業員として明朗な気持で社務に従事することになつた」と発表し得るであろうか。右社報の報ずるバツヂ、旅費、まかない料のごときは、差別扱いを受けていた給仕の労働条件の中では極く軽微なものの例示にすぎない。前記(ニ)にかかげたように、身分制廃止の理由として、すでに、当時における給仕の身分昇格の社内慣行、その他の労働条件が斟酌されているのであつて、この点と従来の昇格制度の廃止されたことや前記社報の記事内容とを考え合わせると、会社の従業員に対する身分制廃止が、給仕雇員と一般雇員や准社員とで、全然相反した意義ないし価値を持つものとは、どうしても理解できないところであつて、やはり給仕雇員についても昇格させる必要がないからこそ、昇格制度を廃止したものと認めるのが、自然な素直な見方である。

(ト) 会社のいう給仕停年制の改定措置は、右のごとく、給仕に不利な点を含むにかかわらず、何等社報に掲載されていない。又身分制廃止の実施された前日の昭和二一年一一月三〇日朝日支部と会社との間に、後記(リ)で述べるような労働協約が締結され、即日発効しているにかかわらず、会社は事前に、組合との協議を経ていないことは勿論、朝日支部の意見も徴していないし、事後報告もしていない。しかも右改定措置につき、人事内規の規定において、形式上も整備されていないのであつて、果して会社側のいうごとき改定措置がなされたものかどうか、人事内規上、甚しく明確性を欠いているし、かつ、右改定措置につき周知方法がとられていない。これらの点につき、「身分制度廃止ニ伴フ規定改正ノ件」と題する申立書の副本(乙第二六号証の一、第一四八号証)に乙第一四七号証の一をあわせ考えると、右申立書は会社の編集局長矢島八洲夫氏の作成にかかるものであつて、昭和二一年一一月二一日大阪本社における役員会においてその承認を得、同年一二月一日より実施することが決定されたこと、同申立書に定限年令改正の件が含まれていることは、明かであるけれども、同申立書の「別紙ノ通り改正方御承認賜ハリ度ク………」の文言に徴し、同申立書には、定限年令の改正に関する「別紙」が添付されている筈であるが、その「別紙」が当裁判所に提出されていない。当裁判所が真正に成立したものと認める乙第一五二号証ないし第一五六号証によると、これらの申立書は正副にかかわらず、その申立の内容が申立書自体の記載内容から明かであるのに比較すれば、前記の定限年令改正の件に関する申立書は、「別紙」の添付がない関係から、給仕、ことに原稿係に関して定限年令の改正の申立をしたのかどうかさえ、はつきりしない。又、乙第一四六号証の二によつても、右改定措置が給仕や編集局の原稿係に周知徹底されたことを認めるに足りない。

(チ) 以上の(イ)ないし(ト)を綜合すれば、給仕、ことに原稿係に対する満二〇才の従来の差別的若年停年制は、前記身分制の廃止に伴つて廃止されたものであつて、これにかえて、それらの者に対し新に満二五才を停年とする差別的な停年制が設定されなかつたものと認めるのを相当とする。証人矢島八洲夫の証言及び乙第一四七号証の一の記載中、右認定に反する部分は前掲(二)の冒頭の他の証拠ならびに以上の各説示に照してたやすく信用し得ないところであり、他に右認定を動かすに足る的確な証拠資料はない。

(リ) 仮に、会社側によつて、満二五才を停年とする給仕停年制が定められたとしても、かかる停年制の設定は、次に述べる理由からその効力を否定されるものといわなければならない。すなわち、前記身分制廃止の前日である昭和二一年一一月三〇日には、新聞単一と会社との間に甲号の、又新聞単一朝日支部と会社との間に乙号の、各団体協約がそれぞれ締結され、即日発効したが、右乙号の協約によれば、ユニオン・シヨツプ制(二条)、七時間労働制(一〇条)のほか、会社は従業員の解雇、異動については、支部の承認を得なければならない(三条)、会社は支部との間に社務の運営や労働条件その他の諸問題に関して経営協議会を設ける。経営協議会の規定は別に定める(五条)、会社は生活費を基準にした合理的な給与制を確立し、また厚生施設を完備して支部員の生活安定を期する(六条)ことが取りきめられ、又、同日発効の朝日新聞社経営協議会規約によれば、本協議会は、新聞事業の健全な発展を通じて社会文化に寄与するとともに、朝日新聞の民主的運営によつて、従業員の経済的、社会的地位の向上を図ることを目的とする(二条)、協議事項として、一、事業経営(機構と人事を含む)に関する事項、二、従業員の労働条件に関する事項その他が定められ(六条)、協議会に対する発議は、当事者何れからも行うことができる(七条)、協議会は月一回定期に開く、但し会社又は支部の要求があつたときは、随時これを開く(八条)と定められていた。この協約は昭和二三年七月末頃、新聞単一の解消するまで、効力を有していたものである。ところで、会社側のいう給仕停年制についていえば、前述のとおり、身分制廃止当時においては、給仕は、人事内規上の昇格規定の適用によつて、給仕でない一般雇員、准社員、社員に順次昇進昇格することが支配的な社内慣行となり、人事内規上の給仕停年規定を適用しないことが不文律的慣行となつていたにかかわらず、会社側は、身分制の廃止に伴い、じご、給仕に対し、一般社員への昇格制度を廃止して停年退社を容易ならしめるところの、差別的な若年停年制を新に樹てるものに外ならない。前記身分制の廃止が社内民主化の声に応じたものであり、朝日支部の集団的意思に沿うものであることは、明かであるにしても、右の給仕停年制の設定は、身分制撤廃に必然的に随伴するものではなく、その撤廃の機会に会社側によつて新に定められた従業員の労働条件で、しかも従来の制度及び慣行に比較して従業員に不利な措置であるから、それが社内民主化を要望した朝日支部の集団的意思に沿うものでないことは、勿論である。かかる給仕停年制が右の協約及び規約にいわゆる従業員の「労働条件」に関する事項であることは明かであるから、会社は、右の協約及び規約の発効後である前記身分制廃止当時においては、右の給仕停年制の設定につき、右協約による協議約款の拘束を受け、従つて、会社としては、これを経営協議会に発議して、朝日支部と協議し、その意見を聴いて民主的に決めることを要するものと解するのを相当とする。しかるに、会社側が右の給仕停年制の設定に関して、朝日支部と協議してその意見を徴した形跡は全然認められないのであつて、会社が全く一方的に定めたものである。従つて、会社の右の給仕停年制の設定は、前記協約上の協議約款に違反するものとして、無効といわなければならない。

(三)  以上説示したところを綜合して、次のように結論することができる。すなわち、

1、申請人小野は緊迫した戦時下に、申請人西田、森本、谷、山本、印藤、池田、立石、田中、笠木、萩原は、戦後の狂瀾怒濤の時代に、いずれも会社の原稿係として入社したものであつて、当時は、会社側が人事内規の満二〇才の給仕停年規定を適用して停年退社させることなく、人事内規の昇格規定の緩和適用により原稿係を一般の雇員その他の上級の身分に順次昇進昇格せしめて行くという人事取扱が、会社の労使関係を支配する不文律的慣行となつていて、右申請人等はこの慣行に則つて採用されたものである。従つて、右申請人等の入社時における労働契約は、満二〇才に達することによつて直ちに会社の従業員としての地位を失うことを内容とするものではなく、満二〇才の頃(存学による停年延長を含む)まで原稿係として普通に勤続しておれば、一般の雇員に昇格せしめて継続雇用することを最少限度の労働条件とするものである。その後これらの申請人は前記昭和二一年一二月一日の身分制の廃止とともに、准社員や一般の雇員と同様、社員となり、満五五才の一般社員の停年制の適用を受けるに至つたものである。

2、仮に、右申請人等の採用当時、人事内規上の満二〇才の給仕停年規定が働いていたとしても、

(イ) その給仕停年規定は前記身分制撤廃により廃止せられ、しかも満二五才を停年とする給仕停年規定は成立せず、又成立したとしてもその効力を生ずるに由ないから、右申請人等は、身分制廃止とともに一般社員となり、満五五才の社員停年規定の適用を受けるに至つたものである。

(ロ) のみならず、原稿係の右若年停年制は、一般の満五五才等の終身雇用型の停年制とはその性質を異にするものであり、世間で給仕と呼ばれる職種に通有のものではなく、又右申請人等の採用当時におけるわが国の新聞企業界においても、編集局関係の給仕に必然のものとして認められていたわけではない。会社の給仕停年制は、このように、社会通念化されていない労働条件であり、かつ、前記(一)の各人別の採用時の状況からも推測されるように、企業に応募する年少労働者の側では、これを知らないのが通常であり、しかも、当該企業もしくは当該企業内のその職種に就職するか否かを決するについて、いわば人生の岐路にも通ずる極めて重要な要素をなすものである。かかる労働条件については、労基法の実施前においても、使用者は、年少労働者の雇い入れに際して、信義則上これを明示することを要請されるものと解するものを相当とし、使用者がかかる明示義務の存するにかかわらず、企業内の人手不足に対処し勤労意欲を昂揚する労務管理的意図に基いて、かかる若年停年制を告知せずに年少労働者を雇用した場合には、使用者がじごその停年制を適用して当該労働契約を終了させ得るものとすれば、雇用された当該労働者に対して取り返えしのつかない損害を与えることになり、単に退職の自由などで済まされるような問題ではないから、かかる場合における使用者の若年停年制の適用は、信義則からしても、将たまた民法第九三条の心裡留保の規定の精神に徴しても、許されないところであると解するのを相当とする。従つて、以上の要件事実を充たす本件においては、会社は、右申請人等一一名に対しては、入社当初から、満二〇才の給仕停年規定を適用して停年退社させることは許されないといわなければならない。そして右申請人等は原稿係として雇員たる身分を有するものであるから、特別の事情の存しない限り、その停年に関しては、一般の雇員と同様の処遇を受けるべき関係に立つものと認めるのが相当であり、従つて、前記身分制廃止により一般社員同様の満五五才の停年規定の適用を受けるに至つたものと解すべきである。

3、申請人神田は、前記身分制廃止直後に原稿係として入社したものであるから、右2の(イ)の理由により、入社当初から一般社員と同様の満五五才の停年規定を適用されるものである。仮に百歩をゆずり、会社側のいう満二五才の給仕停年規定が身分制廃止に伴う改定措置として有効に設定されたものとしても、該停年規定は未だ慣行化していないばかりでなく、申請人神田はその採用時にかかる停年制の告知を受けていないから、前記2の(ロ)と同様の理由により、満二五才の停年制を理由として退社させることは許されないといわなければならない。

4、右の申請人小野以下一二名は、結局、いずれもその労働契約上、会社側において満二〇才又は満二五才の停年を理由として退社させることができない関係にある。会社側は、右申請人等は第一次就業規則の原稿係停年制を踏襲した現行就業規則の付則により満二五才の停年規定の適用を受けるものであると主張するけれども、労基法の制定前において取得している右申請人等の労働契約上の既得的地位を労基法下の就業規則により一方的に同人等の不利益に変更することのできないことは、前述したところであり、右申請人等がその不利益変更に対して同意を与えたことを認める資料はない。従つて、会社は現行就業規則の付則の満二五才の停年規定を適用して右申請人等を停年退社させることはできないから、右申請人等は、満二五才に達した後も、引き続き、会社の従業員たる地位を有するものといわなければならない。

三、第二グループに属する申請人北条、伊藤及び富島について、

右の申請人三名が会社の第一次就業規則の制定(昭和二三年八月)後に、会社の原稿係として採用されたこと及び同就業規則において、原稿係の停年が満二五才と定められたことは、当事者間に争なく、証人伊藤粂三の証言により成立を認められる乙第七号証によれば、右就業規則第四五条は、勤続一〇年未満で停年に達した社員は退社とする旨定めていることが認められる。

(一)  第一次就業規則が無効であるとの右申請人側の主張について、

1、まず、右就業規則は労基法第九〇条所定の組合の意見をきいていないから無効であるとの主張につき考えるに、前記乙第七号証、甲第一七号証(組合員のしおり、五一頁参照)、甲第三二号証(二一頁)、成立に争のない乙第二七号証、第四〇号証の一ないし四(ただし、その二の一部)、第四一号証の一、二、証人伊藤粂三の証言により成立を認められる乙第四三号証、官署作成部分の成立につき争なく、その余の部分も真正に成立したと認められる乙第六号証に証人伊藤粂三、松井透(ただし後記措信しない部分を除く)、矢島八洲夫の各証言を綜合すると、会社は労基法の施行に伴い就業規則を主務官庁に届出るため昭和二三年二月の経営協議会で就業規則案を当時の会社従業員の組織する組合である新聞単一朝日支部に示してその意見を求めていたが、組合の審議が遅れて日を経過するうち、同年八月主務官庁から就業規則の届出がなければ労務加配米の配給を停止するとの通知に接したので、この旨を会社矢島取締役から当時の組合全新聞朝日支部の委員長松井透に伝えるとともに、さきに組合に呈示した案を修正したところの就業規則案(これは第一次就業規則と同一内容のもの)を新たに呈示して、その意見書の提出を求めたところ、同月九日組合から意見書(乙第二七号証)の提出があつたので、その頃右意見書をつけて各事業所毎に所轄労働基準監督署長に届出がなされ、正式に受理されたことが認められる。乙第四〇号証の二の記載及び証人松井透の証言中この認定に反する部分は信用できないし、その他右認定を左右するに足る疏明資料はない。

従つて、組合の意見をきいていないから、無効であるとの主張は、その前提において理由がない。

2、次に、労基法第一〇六条所定の周知の方法を欠いているから無効であるとの主張につき検討するに、前記第四一号証の一、二、証人伊藤粂三の証言、同証人の証言により成立を認められる乙第四四号証の一、二を綜合すると、会社は前記就業規則の届出後右就業規則を一、二〇〇部程度印刷し、東京、大阪、名古屋、西部各本社毎に各部課長を通じ職場の見易い所に掲示せしめる等の周知方法を講じたことが認められる(この認定に反する証人松井透の証言は信用しない)から、右主張はその前提において理由がない。

従つて、第一次就業規則が就業規則としての効力を有しないことを前提とする申請人等の主張は、理由がない。

(二)  右申請人等の採用時における個別的状況、最終学歴についてみるのに、

1、申請人北条康之の供述及び同供述により成立の認められる甲第二三号証ならびに本件冒頭の説示によれば、申請人北条は、文部省の給仕をしながら都立上野高等学校第二部(夜間部)に通学していたが、同期生で朝日の原稿係をしていた渡辺浩一の紹介で原稿係の募集に応じ、昭和二三年二月頃会社東京本社の編集局庶務部長三船四郎、原稿係主任の佐野大次郎の面接を受け「直ぐにでも来てくれ」とのことであつたので、その頃、朝日に転職し、同年九月はじめ頃まで臨時雇として、東京本社の原稿係の仕事を担当し、同月八日付で正式に原稿係に採用されたもので、臨時雇のときにも、右正式採用のときにも、原稿係の停年制をきかなかつたこと、正式採用当時満一七才の青年で、最終学歴は中央大学文学部二年中退であること、文部省におれば、停年制はなく、学歴により順次昇進して行く道が開けていたことが認められる。甲第二三号証中、右臨時雇の期間を試用期間とする趣旨の記載部分は右申請人本人の供述に照して信用しない。

2、申請人伊藤隆の供述及び同供述により成立の認められる甲第二四号証によれば、申請人伊藤は、四谷商業高等学校一年に在学中、会社東京本社に勤める知人の紹介で昭和二三年一〇月はじめ頃前記原稿係主任の佐野大次郎の面接を受け、同月五日原稿係に採用されたが、採用当時原稿係の停年制は全然きかなかつたし、同主任から「会社に入つた以上、会社本位でやつてもらう」といわれたこと、採用時、満一七才の青年で、最終学歴は明大政経学部卒であることが認められる。

3、申請人富島光の供述(一部)に証人平松儀勝の証言(第一、二回)、弁論の全趣旨に徴して成立の認められる乙第一四一号証を綜合すれば、申請人富島は、大阪府立三島野高等学校(旧制茨木中学の後身)一年に在学中、会社大阪本社に勤めていた知人からきいて原稿係の募集に応じ、昭和二四年八月頃筆記試験、面接及び体格検査を受け、同年一〇月五日付で大阪本社編集局の原稿係に採用されたが、同年九月末頃、人事部から、父兄同伴で本社に出頭するようにとの通知が来たので、その頃父と一諸に出社した際、大阪本社の人事部長木下快彦及び編集局庶務部長の平松儀勝から原稿係の満二五才の停年制を告知され、これを承知の上で入社したこと、採用時、満一五才の青年で、最終学歴は停年当時関大文学部四年在学中で、停年後間もなく卒業したことが認められる。申請人富島光の供述中右認定に反する部分は、証人平松儀勝の証言に照して信用し難い。

(三)  申請人北条、伊藤の労働契約の内容について、

1、右申請人両名は、その採用当時、第一次就業規則の原稿係停年制の適用を受けるか。

前記乙第七、二七号証、第四〇号証の二、四、第四三、一四九号証、甲第一七、三二号証と前記身分制撤廃による原稿係停年制の廃止ならびに新聞単一及び同朝日支部と会社との間の労働協約について述べたところ(前記第一の二の(二)の6(チ)(リ)参照)を綜合すると、次のとおり認めることができる。すなわち、新聞単一及び同朝日支部と会社との間の、甲号及び乙号の各労働協約は、その有効期間一カ年の終わり頃に、朝日支部より中央労働委員会に提訴して、右協約の効力持続措置がとられ、その後朝日支部は会社と新労働協約の締結交渉を続けていた。ところが、新聞単一が昭和二三年七月末頃解散したのを契機に、会社側は同年八月三日頃右甲号及び乙号の各労働協約が消滅したとの見解を表明するに至つたので新聞単一の解散後に組織された全新聞朝日支部は、支部組織の同一性に基く右乙号労働協約の存続を主張して会社側と折衝した結果、同年八月下旬頃両者間に支部側が労働委員会に提訴している間は右乙号労働協約の効力を継続するという暫定協定が成立し、この暫定協定は、少くとも同年一〇月一四日頃会社が支部のストライキ突入を理由に取消の意思表示をなすまでは、その効力を保有していたのであつて、右取消は遡及効を有しないというべきである。支部側は新聞単一当時から引き続き、第一次就業規則(案)に対しては、右乙号労働協約との関連上、新労働協約の成立をまつて、改めて就業規則について会社と協議してきめたい旨を表明していたのであつて、右就業規則が会社と従業員との間に直ちに効力を持たないよう、希望していたのである。従つて、前記暫定協定の趣旨は、全新聞朝日支部の希望に沿い、右暫定協定が効力を保有する間は、労使双方は前記乙号労働協約に拘束され、会社側は届出にかかる第一次就業規則中、従来の労働条件を変更する部分については、これを直ちに適用しないという点に存するものというべきである。ところで、右労働協約には、前述のとおり、従業員の労働条件を経営協議会で協議する旨のいわゆる協議約款が存する。そして当裁判所がさきに認定したごとく、身分制撤廃により給仕(原稿係を含む)停年制が廃止された半面、身分制撤廃に伴う会社側主張の満二五才の給仕停年制が不成立又は無効であるという見解に立つ以上、第一次就業規則は原稿係停年制を新設するものというべきである。従つて、かかる停年制の新設については、右暫定協定が効力を有する間は、会社側は、これを経営協議会にはかり、朝日支部との協議を経なければならない。会社側は同年三月一日の経営協議会の席上で新聞単一当時の朝日支部側に第一次就業規則案を示して説明したことは認められるが、その際、支部側は、前記労働協約との関連から、大衆討議にかけるまでその実質的協議に立ち入ることを保留されたいと希望し、会社側もこれを諒承していたのである。その後、経営協議会において、実質的協議を経た形跡はうかがわれない。従つて、第一次就業規則によつて新設された原稿係の若年停年制は、前記暫定協定が効力を保有する間は、右乙号労働協約上の協議約款に基き経営協議会で協議がなされるまでは、一時その効力を停止され、従業員に対して未だ有効に適用することができないものといわなければならない。

申請人北条、伊藤は、ちようど右暫定協定が効力を保有している間に、会社の原稿係として採用されたことが、前記認定に徴して明かであるから、上叙の説示に照し、右両名に対して第一次就業規則の原稿係停年制を適用するに由なく、右両名は、特別の事情の認められない限り、第一次就業規則の定める満五五才の停年規定(これは、従来から認められていたもので、前記の労働協約と矛盾しない)の適用を受けるものと解するのを相当とする。

2、仮に、右申請人両名に対して、第一次就業規則の原稿係停年制の適用があるとしても、会社側は、採用当時、右停年制を告知していないことは、上叙のとおりである。ところで、使用者は労基法第一五条により、労働契約の締結に際して、労働時間その他の労働条件を明示すべき義務が定められているのであり、しかも右のごとき若年停年制に関する労働条件については、前記第一の二の(三)2の(ロ)に述べたと同じ理由及び根拠により、かかる停年制を告知せずに年少労働者を雇用した使用者は、じご、その停年制を適用して当該労働者の労働契約を終了させることは、許されないといわなければならない。従つて、右の要件事実を充たす本件においては、会社は、右申請人両名に対して、第一次就業規則、従つて又現行就業規則の満二五才の原稿係停年制を適用して、停年退社させることは、できないというべきである。

(四)  申請人富島について、

全新聞朝日支部は昭和二三年一〇月のストライキを契機として八つの組合に分裂したが、その中の朝日新聞労働組合と会社との間に昭和二四年七月一一日に、又全新聞朝日支部、朝日支部東京編集労働組合等七つの労働組合によつて結成されていた統一協議会と会社との間に同年八月一〇日に、退職手当支給規定ならびに社員停年、停年休職規定の改正に関して、それぞれ協定が成立したことは、当事者間に争なく、証人矢島八洲夫の証言及び同証言により成立の認められる乙第二八、二九号証によれば、右の各協定には「原稿係の停年を満二五才とし、勤続一〇年未満で停年に達した者は退社とする。」ことが定められ、従つて、右の各組合も原稿係の若年停年制に同意を与えたことが認められる(甲第四一号証中、右認定に沿わない趣旨の記載部分は、前掲の証拠に照して信用し難い)。従つて、申請人富島は労使間の右各協定成立後に原稿係として入社したものであり、採用時に原稿係の停年制を職制から告知されたことも、上叙のとおりであるから、同じく第一次就業規則の制定後に入社したといつても、前記の申請人北条、伊藤と同一に論ずることはできない。

第二、そこで、申請人富島については、以下、申請人近藤と一括して、その停年退社を無効とする申請人側の所論に検討を加えることとする。

一、停年制は重要な狭義の労働条件の一つであつて、就業規則の内容となり得ないから、この点に関する就業規則条項は無効である旨の主張について、

労働条件は、労使が団体交渉の場において、対等の立場(労基法二条)で、自主的に(労組法一条)決定するのが建前である。しかしながら就業規則は前示のとおり使用者が労使関係を組織し秩序づける目的で制定するものであり、そのためには単に生産過程における組織的側面としての経営秩序の維持に関する事項だけに止らず、労働力の交換過程における人事の基準としての労働条件を集団的劃一的に定める事実上の必要性もまた存するのであるから、かような規定を就業規則に設けること自体が許されないと解する根拠はないし、労基法第八九条所定の就業規則の記載事項中にもかような労働条件を含むことは明らかであるから、この点の主張も理由がないといわなければならない。

二、原稿係停年制はこれを設ける本質的理由を欠くから、就業規則にかような規定を設けることは、経営権の乱用であつて、許されず、従つて、この点に関する就業規則の条項は無効であるとの主張について、

第一次就業規則が原稿係の停年を満二五才とし、勤続満一〇カ年未満で停年に達したときは退社とすることを定めていたことは、前叙のとおりであり、昭和二六年七月一日実施にかかる現行就業規則及び「停年、停年休職規定」は、第一次就業規則を改正して、原稿係の停年を満二〇才に短縮し、原稿係が停年に達した際、現に会社の認める上級学校(概ね旧制の高専、大学又は新制の大学)に在学している者については、特に選考の上、卒業の日まで満三年を超えない範囲で停年を延長することを認め、原稿係が停年に達したときは退社とする旨を定める一方、「停年、停年休職規定」の付則は、昭和二六年七月一日前に入社した原稿係は満二五才をもつて停年とし、延長しないと規定している。これが本件における原稿係の停年制である。ところで停年制とは、停年後も特別の事情により引き続き継続雇用する旨の規定又は慣行のない限り、一般には一定年令に達することにより劃一的に当然雇用関係終了の効果を生ずる制度であつて、停年制の採用は企業経営者側の労務管理的意図に基く人事基準の設定行為と解されるが、それが労働者に不可避的に従業員たる地位の喪失を招来させる点で、労働者にとつては実質上意味するところは解雇と全く異ならないものであるから、解雇権の乱用が許されないのと同様、停年制についてもそれが停年制として社会通念上是認し得る合理的な理由を欠く場合には、かような制度を設けること自体、本来公共の福祉に適合して行使すべき企業経営権の範囲を逸脱し、権利の乱用として許されないものと解するのが相当である。けだし、かように解しなければ、解雇に伴う紛議を停年制の採用によつて回避し(停年制にかかる機能があることは被申請人自ら停年制を認める合理的理由の一つとして主張するところである)、実質上いかなる解雇をも可能ならしめる結果となり、かくては労働者に保障された生存権や労働権は全く有名無実に帰することともなるであろう。そして、一般に停年制と称せられているものは、それが職種別停年制であつても、その業種又は職種に要求される労働力の通常ないし平均的な適格性が低減するにもかかわらず、給与が高給となることや雇用の規模、態様等から、企業経営の合理化を理由として採用されておるのであり、それが企業の合理性の維持増進に寄与する意味から社会的にその存在理由を是認できるのであつて、かように企業の合理性の維持増進上これを採用する具体的必要性が存するものと社会観念上認められない限り停年制としてこれを是認し得る合理的理由を欠くものといわなければならない。

そこで、右の見地から本件原稿係停年制についてこれを採用する合理的理由が存するか否かにつき、考察するのに、証人矢島八洲夫、角谷市太郎、木村照彦、林田重五郎、清水博、渋沢輝二郎、岡田稔、平松儀勝(第一、二回)、斎藤一、杉江孝長(第一回)、木俣博、山本健二、印藤和男、萩原清治、鈴木益民、小林大介の各証言及び申請人等各本人の供述に証人斎藤一の証言により成立の認められる乙第五一号証、証人杉江孝長の右証言により成立の認められる乙第六三号証、証人矢島八洲夫の証言により成立の認められる乙第三一号証の一ないし三、第一〇二号証、第一〇三号証の一、証人萩原清治の証言により成立の認められる甲第一四号証、成立に争のない乙第六四号証、第一三四号証(五頁参照)、第一一一号証の二、四、甲第一号証、弁論の全趣旨に徴し成立の認められる乙第九六、一三八、一五三号証、前記乙第七号証、甲第一七、三二号証ならびに弁論の全趣旨を綜合すると、原稿係の実態ならびに原稿係停年制に対する組合側の態度は、次のとおりである。

1、原稿係の仕事

原稿係は、各本社では、編集局庶務部に所属し、編集局各部(編集庶務部、政治、経済部、社会部、通信部、学芸部、運動部、調査部、連絡部、整理部、校閲部、写真部、世論調査室等)に派遣され(ただし、地方支局にあつては支局長に所属し、その支局の原稿係の仕事に従事している)、原稿係としての業務に従事し、その繁閑を調整するためにも、随時その配属先をかえられて各部を廻つているが、その仕事の内容は、新聞編集に伴う各種の雑務、すなわち机上の整理、お茶くみ、鉛筆削り、インクの補充等の事務用品の整備、編集各部のデスクへの新聞等の配布、電話の取次を初めとし、原稿運び、その頁つけ、印刷工場との連絡(ゲラ運び)ゲラサシ等簡易機械的ないわゆる被申請人の主張する給仕的仕事が主要なものである。もつとも、その仕事は、別紙第七の(一)ないし(六)に記載されているとおり、必ずしも右の如き仕事に止らない。すなわち、デスク又は記者の指示を受けて、倍数計により写真スペースを計算したり、時間外勤務表を作成したり、一括して受取つた時間外手当金を個人別計算表により支給袋に分配する仕事、送稿の複写(連絡部における)等にも及び、更に政治、経済、社会部配属の原稿係は経験を積むに従い、出先きの記者からの電話受稿の仕事も部員の手が廻らないため日常的に行い(東京本社政治部では原稿係が電話受稿の殆んどを、社会部では半分程度を受持つておる状態である)、場合によつては記者の取材、執筆した原稿の電話送稿(斎藤証言)をなし、写真部配属の原稿係は写真の現象焼付をなすこともあり、殊に天気予報(気象台より日に四回電話受稿)株式相場、繊維場況、雑観、現物(取引所より電話受稿)日銀帳尻(東京本社のみで日銀から電話受稿)横浜生糸雑観(東京本社のみ連絡部より受稿)ラヂオ放送のプログラム等の電話受稿は専ら原稿係の日常的な仕事とされ、また地方支局にあつては、写真の現像焼付、或は写真撮影、忙がしい場合には記者の原稿の電話送稿(ただし、原稿自体は支局長が目を通している)の事務もなされておるのであつて、これを要するに、原稿係の仕事の実態は、各配属部の仕事の性質に応じその仕事の内容、難易、繁閑、判断力の要否等に若干の差異はあるけれども、編集局各配属部の部員がその責任的地位においてなす仕事以外の一切の仕事、すなわち単なる肉体的機械的労働だけに止らず、記者の補助的事務労働をも含めた仕事を当該配属先部員の指揮に基いて果しているものである。しかし、原稿係の仕事は、前記給仕的仕事が基本をなすものであり、前記の記者補助的事務は、部員の人手不足に伴う現象であつて、記者見習的業務として課せられているものではない。

2、採用方法と就学状況

原稿係の採用については、新聞記者の採用が大学卒業者を対象とし、難関とされる筆記試験ならびに重役立会の上の面接試験によつて厳選されるのに比し、社内募集による縁故採用を主とし、しかも一八才未満の新制中学卒業程度の者(学制改革前は高等小学校卒程度)を対象として、各本社別に書類(履歴書、成績証明書等)選考の外に、簡易な筆記試験(国語、算数が課せられたこともあるが、昭和二九年前後から作文のみ)と、編集局庶務部長、原稿係主任ならびに人事部の職制の立会による面接試験を行い、前記給仕的仕事に適する健康、明朗、素直等の適性の点に重点をおいて選考採用している。地方支局では、支局長が所属本社の通信部長の承認を得て、適宜選考し、支局長とのつながりが強い。そして、第一次就業規則及び現行就業規則には、いずれも人事内規当時の昇格制度はなく、原稿係という職種は、原稿係から上級社員へ、昇進コースをたどる最下級の「職階」又は「職位」として設けられているものではない。従つて、原稿係は会社の従業員ないし社員ではあるが、各本社の編集局の原稿係として採用されるに止る。

原稿係に応募する者は新制中学卒業者で家庭の事情から進学の希望がかなえられないか、新制高校に在学中の者でも家計補助の必要から通学のためには働かなければならない事情にある者が殆んどのため、面接選考の段階で将来の希望をきかれると、これらの応募者の答は、新聞記者という者もあれば、警察官という者もあつて、その将来の抱負は、まちまちである。従つて、給仕だけに終わろうとする者はなく、その殆んどの者が、働きながら進学ないし通学の望みを達して将来を期するものばかりである。原稿係になつてからも、高校又は大学に就学し、大学に進んでも、法文系あり、文学部、工学部もあれば、農学部もあるという風に、めいめいその能力、志望に応じて就学しているのが現況であつて、会社は、原稿係の修学に対して勤務割り等の点で便宜をはかる外は、別にこれに関与しないし、その修学による知識、能力、学歴が会社の必要に沿うとは、限らない。原稿係の仕事は、新聞編集に時間的制約があり、時間延長が許されないところから、配属先によつて一定時間内の労働密度は高くても、仕事の打切り時間がきちんと区切られる点で、昼勤の原稿係は夜間の学校へ行けるし、夜勤の原稿係は昼の学校へ通えるという具合に、働きながら学ぶことを容易ならしめ、会社も伝統的に奨学しているのである。しかし、このような通学は、会社の印刷局等では、仕事の関係から認められていない。従つて、原稿係という職種は、新中卒又は高校在学中の者が、賃金を得て家計を補助したり自ら生活するためという要素に加えて、進学による将来の職業選択にそなえるという目的をもつて、高校、大学を卒業するまでの、いわば学資補助のために就職する傾向が看取される。この点は、職業に就きながら、職業をとおして人格的に自己を完成するために就学するというのとは、趣を異にしているし、又戦時中から戦後にかけての前記人事内規時代の昇格慣行にのつかつて、中学さえ出れば概ね昇進していた当時の状況とも、大いに趣を異にする。

なお、学制改革以来、新制中学卒業者が大企業の事務労働に就職し得る機会が殆んどない傾向にあることは、周知の事柄に属するのであつて、この点、朝日新聞社という大企業体への就職が、年少者にとつて、殊に新聞記者を志す者にとつて、大きな魅力であり、あこがれの的であるにしても、本来進学自体を希望する新中卒又は高校在学中の者がひとたび原稿係に採用されたことによつて、直ちに朝日の記者になれるというような甘い錯覚に陥るとすれば、余りにも世間を甘く見過ぎるものといわなければならない。原稿係は、朝日の記者になる一つの機会であるにすぎない。

3、能率面

原稿係の給仕的仕事の中でも最も重要な原稿運び、ゲラ運びは、寸秒を争う新聞の編集製作に関する仕事であるから、健康で素直に敏捷に立ち働くことが要請される。かかる労働は、若さというよりも年少性を要求する。原稿係が自ら勉学して大学を卒業したり、年令を増すにつれ、原稿係の側でもその給仕的仕事に対する勤労意欲の低下はまぬがれないし、原稿係を指図する新聞記者の側でも、自然に使いにくくなる傾向がみられる。組合側の原稿係停年制の撤廃運動が満二〇才又は満二五才に達した原稿係の配置転換による職場の保障を要求するにある点に徴しても、組合側も原稿係の職種には満二〇才前後までを適当としていることがうかがわれる。もつとも、成立に争のない甲第五九号証の一、二ならびに前掲の証拠によると、会社側主張の原稿係から再採用された編集庶務部員で編集局の各部に配属されている者が昭和三四年三月当時において原稿係と同じような仕事をしていることがうかがわれ、これと同じような現象が、昭和二三、四年頃の第一次就業規則当時にあつたことは、証人平松儀勝の証言(第一回)により認められるけれども、前者は、原稿係(会社側の主張によれば)を再採用してもその後任が補充されない関係から、その補充あるまでの暫定措置としてなされているものであり、後者は、昭和二一年五月の新規採用停止措置ならびに身分制廃止に伴つて事務雇員等が一般社員に昇格したために生じた一時的現象であることが前掲証拠により認められる。従つて、右の特殊事情による執務状況を引用して、申請人側が、原稿係の職種は満二五才を過ぎた者でも能率が低下しない、と常態的に立論することは、当を得ていない。

4、賃金面

昭和二一年末頃新聞単一朝日支部のかちとつた第四次待遇改善以来、「上に薄く下に厚い」生活給的色彩の極めて強い年功序列型の給与体系のために、会社の従業員はその仕事いかんにかかわらず、学歴、年令、勤続年数によつて賃金が支給されることになつた。従つて、原稿係の場合は、その在職中に大学を卒業したり、年令を増すにつれてその給仕的仕事に対する能率が停滞又は後退するにかかわらず、賃金はその学歴、年令に応じて次第に増嵩するという矛盾が顕著に現われる傾向がみられる。そこで、会社は、身分制廃止後、殊に昭和二三年一〇月頃から年功序列型の賃金体系に対する職務給的配慮及び編集局における記者と原稿係との給与面における段差確立の必要をあらたに認識するに至つた。

5、配置転換の能否

会社は、東京、大阪、名古屋、西部の四本社をあわせ、昭和二四年一二月当時六、〇五六名、昭和三二年九月現在六、六八四名の従業員を擁し、年間の五五才停年退社、事故退社、依願退社等の人員数が約一七〇名ないし二五〇名に上ることが認められ、又全社を通じ二百五、六十名の原稿係の近年における定着的傾向に徴すると、もし原稿係に特殊な停年制がなければ、現在の停年制の適用対象となる年間三十数名の原稿係に職場を保障しなければならないことが予想される。ところで、会社は編集、印刷、業務等の各局に分れてて、それらが不可分の関係にありながら、それぞれ独立の工場のごとき観を呈し、高度に分業化されているため、停年制の対象となる年頃の編集局の原稿係がその能力、学歴に照して必ずしも他の局の部署に適性を有するとは限らない。会社の従来の経験によれば、原稿係は編集局員に残ることを希望する傾向が圧倒的であるが、それらの原稿係を制度的に新聞記者として受け入れることは至難の状況にある。もつとも、会社において綜合的系統的な人事を実施していない憾みはあるにしても、高校や大学を卒業したり、あるいは、学業を途中で断念するなど、各人各様の経歴を有する三十数名の原稿係について、これを適材適所に配置転換し得ることを認めるに足る的確な資料はない。さらに、会社は原稿係として年少者を雇用した以上、その労働力を保全すべき義務はあつても、原稿係の育成については、会社自身が企業経営の立場からその必要性の有無を判断して処理すべき事柄に属し、その給仕的労働力を重視して雇用した会社に原稿係育成の義務を課することはできない。

6、原稿係の停年制の実施状況と再採用

会社の就業規則に昇格制度のないことは、前述のとおりであるが、会社は、原稿係の中で特に成績の優秀な者は、関係部長、編集局長等の特別選考を経て、編集庶務部長の名において役員会に再採用の申立をなし、その承認を得た上で一般社員に再採用できる道を開いている。ところで、第一次就業規則実施(当裁判所の判断では昭和二三年一〇月一四日頃)後、現行就業規則実施前に採用された原稿係で全社を通じ昭和三二年四月一日現在、一般社員に再採用された者及び停年制の適用を受けて停年退社した者はいずれも十数名、区分不明者四十数名であり、現行就業規則の実施後に入社した原稿係では、停年退社した者二八名、再採用者は不明である。従つて、この再採用の道が第一次就業規則の実施後に入社した原稿係について慣行化しているかどうかは、未だ見極わめ難いのであるが、しかし、かかる再採用の道を開いているからといつて、原稿係をその停年制によつて篩にかけようとする意地悪い労務管理的意図に出るものではなく、簡単な選考によつて採用された原稿係に対しても、その能力、勤務成績、企業への貢献度等を勘案して、優秀な者を登用しようとするものに外ならない。しかも、その評価は、原稿係の数年間にわたる勤務実績等に徴して、日常直接これにふれている関係各部長等の意見が基礎をなすものであるだけに、概ね公正を期待される。

7、原稿係の停年制に対する組合の態度

第一次就業規則の満二五才の原稿係停年制については、朝日労組ならびに統一協議会が会社との間の昭和二四年七月一一日ならびに同年八月一〇日付の各覚書においてそれぞれこれに同意を与えたことは、前叙のとおりで、現行就業規則の制定に当つても、満二〇才(又は満二五才)の原稿係停年制について、朝日労組は、ほぼこれを認め、全朝日労組は、停年後の職場保障を要求する態度を持していたものである。統一された朝日新聞労働組合は昭和二七年五月二二日の労働協約において、原稿係の右停年制を承認した恰好になつている。その後、組合は昭和二八年二月に至つてはじめて原稿係の停年制撤廃を取り上げ、新労働協約に「従業員の停年は職種によつて差別しない」旨を条文化する方針を決めたが、昭和三一年二月締結の労働協約においても、従前の協約の線を維持し、その後に至つて、「原稿係給仕の停年取扱については、労使双方で協議してきめる」との中労委のあつせん案をそのまま協約の付属書に取り入れ、問題の解決を将来に持越しているのが現状である。

8、原稿係とアルバイト雇用との得失

会社は、社内で原稿係の停年制撤廃が叫ばれるようになつてから、原稿係の欠員を補充しないで、学生アルバイトの雇用方式を増す傾向が僅かながらもうかがわれるが、原稿係は、アルバイトに比し、雇用も安定し、給与面、傷病の保障、年次有給休暇等にも恵まれ、健康でさえあれば、大学を出るまでとにかく雇用が保障されている。前記2のような、新制中学卒業者又は高校在学者で進学の希望に燃えながら家庭環境に恵まれない者にとつては、働きながら学び得る雇用形態として、原稿係制度の方がアルバイト方式より優つていることは、明かである。

前掲の証拠中、以上の認定に反する部分は、当裁判所の信用しないところであり、他に右の認定を左右するに足る証拠はない。

以上1ないし8を綜合するとき、満二五才又は満二〇才の原稿係はその一般的な労働能力の点で低減することはないにしても、又原稿係に対する会社側の職務分析等の点で多少放漫に流れる点が看取されるにしても、さらに学業と職業との両立がいかに難しく、又社会保障がいかに確立されていないにしても、原稿係の給仕的能力に主眼をおいて、以上に説示したごとき企業経営の立場、原稿係のおかれている傾向的な環境及び雇用の実態、配置転換の可能性、社内労働組合の態度等を考え合せると、会社が働きながら就学を希望する年少者に開かれた就職の門としての原稿係の職種に対し、企業の基幹要員を構成する一般社員の満五五才の停年制と差別して満二五才又は満二〇才(たゞし、停年延長の満二三才を含む)の職種別停年制を就業規則で定めることは、会社の企業合理性の維持上、やむを得ないところであつて、未だ憲法第一二条、第二七条、民法第一条二、三項に違反するところの経営権の乱用に当らないものと解するを相当とし、有効といわなければならない。従つて、これに反する申請人等代理人の見解は、当裁判所の採用し得ないところであり、右見解を前提として申請人富島、近藤の停年退職の無効を主張する申請人等代理人の所論は、理由がない。

三、申請人側は、原稿係停年制に関する就業規則条項は「原稿係」という社会的身分による差別待遇であつて、憲法第一四条、労基法第三条に違反し、無効であると主張するけれども、右各法条にいう社会的身分とは、被申請人主張のとおり、生来的な社会的身分を指称するものと解すべきところ、原稿係は企業における職種であつて、右にいう社会的身分に該当しないから、申請人側の右主張は理由がない。

四、申請人側の不当労働行為に関する主張につき、(1)原稿係の本件停年制自体が不当労働行為であるとの点については、かかる主張が主張自体として成り立つかどうか、疑わしいのみならず、これを認める証拠もなく、(2)右申請人等の停年退職が不当労働行為として無効であるとの点及び(3)右申請人等の不採用が不利益扱いであるとの点については、右申請人両名に関して、かかる不当労働行為の成立を認めるに足る証拠はなく、さらに申請人側の解雇権乱用の主張については、原稿係の本件停年制が上叙のとおり有効である以上、かかる主張は理由がないというの外はない。

五、以上のとおり、申請人富島、近藤に関係する申請人等代理人の主張はいずれも理由がなく、右申請人両名の本件停年退職は有効になされたものというべきであり、従つて、右両名は停年該当の翌日以降すでに会社の従業員たる地位を失つているものである。

第三、叙上の次第で、申請人富島、近藤を除いた他の申請人等一四名の本件停年退職は無効であるから、右申請人等一四名は依然会社の従業員たる地位を保有しているものというべきところ、会社が申請人等に対しその停年該当日(別紙第一の解雇年月日欄記載の各日附)の翌日以降停年退社を理由に就労を拒否していることは弁論の全趣旨に徴し明らかであり、右就労拒否は叙上のとおり理由なく、会社の責に帰すべきものと認めるを相当とするから、申請人等は被申請人に対し労働契約に基く賃金請求権を失わないものといわなければならない。しかして、右申請人等の停年退職当時の賃金月額が申請人等各主張のとおりの額であつて、同申請人等が右賃金を毎月一五日と二八日にその主張のとおり分割支払を受けていたことは当事者間に争がなく、右申請人等は別紙第一記載の解雇年月日の翌日以降各主張の割合の賃金月額を毎月一五日と二八日に分割して支払うことを被申請人に対し請求し得るものということができる。

そこで、仮処分の必要性につき判断するに、右申請人等一四名がいずれも会社からの賃金を唯一の生活の資としている者であることは明らかであるから、本件各停年退職の措置により生活の資を絶たれ、その生活に困窮するに至ることは容易に推認できるところである。被申請人は、申請人森本の停年退職後本件仮処分申請までの既経過の賃金については仮処分の必要性がない旨主張するから考えるに、申請人森本が停年退職後約一年を経て本件仮処分申請に及んだことは記録上明らかであるが、当裁判所において真正に成立したと認める乙第一四〇号証、証人杉江孝長の証言(第二回)及び申請人森本本人の供述によれば、同申請人は停年退職の二五日後に会社に対し右停年退職を争つて法廷闘争に参加する旨を述べ、組合の資金カンパを受けて辛うじて生活してきたことが疏明され、右事実に、当時既に他の申請人等の仮処分事件(本件昭和三一年(ヨ)第四八号、昭和三二年(ヨ)第三、一四六号、昭和三三年(ヨ)第四五六号事件)が係属中でその審理も相当程度進んでいた事実(このことは当裁判所に顕著である)を合せ考えると、右森本が仮処分申請をなすまでに日時を経過したのも生活に余裕があつたからでも、また、権利の行使を怠つていた訳でもなく、専ら他の申請人等の事件の推移を注目していた結果によるものと推測できるのであつて(なお、このことは停年退職後仮処分申請までに相当の日時を経過している申請人北条、池田、神田、伊藤、立石、笠木、山本、田中等の場合も、同申請人等各本人の供述から窺われる、同人等がいずれも停年退職以前から原稿係停年制に反対していたとの事実、同人等の停年退職当時には申請人小野、西田、谷の仮処分事件が既に係属中であつたこと記録上明らかな事実に申請人森の供述から窺われる、右申請人等も組合の資金カンパにより一時的に生活資金の援助を受けているとの事実を照し合せば、右森の場合と同様と推認される)、退職後仮処分申請までに日時を経過したことや、既経過分の賃金であるからとの一事では仮処分の必要性がないものと断ずることはできない。しかしながら、申請人森本の供述によれば、被申請人会社は月の途中で従業員が退職した場合も一カ月分全部の賃金を支給していることが窺われるから、申請人等全部につきその退職の日の属する月分の賃金の支払を求める必要性はないものであり、成立に争のない乙第一四二号証及び申請人森本の供述によれば、同申請人は退職金として金一三八、三九四円を受領したこと(右金額は同人の賃金月額の七倍弱に該当する)が認められ、これにより差当りの生活の保障を得たものと解されるから、右約七ケ月に相当する期間は同申請人には賃金支払の仮処分の必要性を欠くものというべく、結局右申請人等一四名に対しては主文第一項記載の範囲において仮処分をなすべき必要性があるものと判断される。

よつて、右申請人等一四名の本件仮処分申請は右の限度でこれを認容し、申請人富島及び近藤の両名については、本件仮処分申請を却下することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九五条、第八九条、第九三条、第九二条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 木下忠良 戸田勝 武居二郎)

(別紙第一)

入社年月日

入社場所

解雇年月日

解雇当時の賃金月額

月額賃金の内毎月

一五日支払分

二八日支払分

小野

昭和二〇年一月二〇日

東京本社

昭和三一年一月二日

一四、六七九円

四、〇〇〇円

一〇、六七九円

同年二月二四日

大阪本社

同年同月七日

一三、四九三円

三、〇〇〇円

一〇、四九三円

西田

同年一一月二四日

同右

同年同月三〇日

一三、九三九円

三、〇〇〇円

一〇、九三九円

北条

昭和二三年九月

東京本社

同年二月一八日

一四、〇七九円

三、〇〇〇円

一一、〇七九円

池田

昭和二一年三月

大阪本社

同年七月五日

一五、一五二円

三、〇〇〇円

一二、一五二円

神田

同年一二月一四日

同右

同年七月一九日

一五、六七二円

三、〇〇〇円

一二、六七二円

伊藤

昭和二三年一〇月

東京本社

同年七月二三日

一六、七四六円

三、〇〇〇円

一三、七四六円

立石

昭和二一年四月

同右

同年八月一二日

一五、九八一円

三、〇〇〇円

一二、九八一円

印藤

同年三月

大阪本社

同年九月一六日

一九、〇三七円

四、〇〇〇円

一五、〇三七円

笠木

同年四月

東京本社

昭和三二年一月一六日

一六、六三五円

三、〇〇〇円

一三、六三五円

山本

同年三月

大阪本社

同年一月一八日

一六、二五五円

三、〇〇〇円

一三、二五五円

田中

同年四月

東京本社

同年三月二日

一七、三六九円

三、〇〇〇円

一四、三六九円

近藤

昭和二七年一〇月

大阪本社

同年九月一八日

一四、二一一円

三、〇〇〇円

一一、二一一円

萩原

昭和二一年九月二三日

同右

昭和三三年二月一〇日

一九、三七一円

三、〇〇〇円

一六、三七一円

森本

昭和二〇年一一月二六日

同右

同年二月一二日

二〇、九五八円

四、〇〇〇円

一六、九五八円

富島

昭和二四年一〇月五日

同右

昭和三四年一月一七日

一九、一六四円

三、〇〇〇円

一六、一六四円

(別紙第二)

給仕停年制調査表(日本新聞協会一九五五年新聞労務資料第四集一九〇頁以下)

社名

停年

社名

停年

社名

停年

北海道

二〇歳

信濃毎日

二〇歳

愛媛

二〇歳

朝日

同右

山陽

同右

夕刊フクニチ

一九歳

毎日

同右

西日本

同右

中日

二一歳

読売

同右

山形

同右

日タイ

二二歳

日本経済

同右

共同

同右

中国

同右

東京新聞

同右

新潟

同右

時事通信

二五歳

日刊スポーツ

同右

岐阜タイムス

同右

ラヂオ東京

二三歳

(別紙第三の(一))

朝日新聞

毎日新聞

読売新聞

一、職名

原稿係

給仕

給仕

一、所属

編集庶務部に属し、編集局各部に配置されている。

業務局庶務部に属し、編集局に配属された給仕の運営は編集局事務課があたり、各部に配置する。

編集局庶務部に属し、各部に配置されている。

一、停年

満二十歳(昭和二十六年七月一日以前の入社者は満二十五歳)

満二十歳

満二十歳

一、停年後

社員に登用することはない。

但し満二十歳の停年者で本社の認める上級学校に在学している者は特に選考の上卒業の日まで停年を延長することがある。ただし満三カ年を超えることはない。

社員に登用されることはない。

但、アルバイト職場に欠員ある場合大学進学中の者に限り、卒業まで、アルバイト採用をすることがある。

社員に登用されることはない。

但、在学中の者は卒業まで「アルバイト給仕」として採用する。

二ヵ月毎に保証人連名の契約書を更新し、期間は最高学年の九月末日までとする。

一、新規採用

原稿係が退社した場合に補充する。

但し地方支局での補充はアルバイト方式による。

正式給仕として採用、補充する。

○「アルバイト給仕」は壱名もいない。

正式給仕が退社した場合その補充に「アルバイト給仕」を採用し、オール・アルバイトに切換中。

一、社員に採用する場合

所定の入社試験に合格した者に限る。

所定の入社試験に合格した者に限る。

所定の入社試験に合格した者に限る。

一、総員

二百五十一名

東京九十三名

大阪七十九名

西部五十六名

名古屋二十三名

二百四十二名

東京八十八名

大阪七十九名

西部五十一名

名古屋二十四名

九十二名

(別紙第三の(二))

一、総員内訳(昭和三十一年三月一日現在)

朝日新聞

毎日新聞

読売新聞

東京

大阪

西部

名古屋

東京

大阪

西部

名古屋

整理部

二四

一二

三三

政治部

経済部

一〇

社会部

一二

一三

外務部

運動部

写真部

通信部

二〇

一九

連絡部

二一

一八

一一

校閲部

二一

二二

調査部

学芸部

世論調査室

特信部

編集庶務部

一五

一九

四一

一五

一三

三五

局長室

論説

国会

(綜合調査室)

(新聞係)

小計

六六

五二

四〇

一八

一七六

六五

五五

三四

二〇

一七四

六七

(内アルバイト)

(一九)

(八)

(一一)

(―)

(三八)

(―)

(―)

(―)

(―)

(―)

(六二)

地方

二七

二七

一六

七五

二三

二四

一七

六八

二五

(内アルバイト)

(一四)

(八)

(三)

(―)

(二五)

(―)

(―)

(―)

(―)

(二五)

総数

九三

七九

五六

二三

二五一

八八

七九

五一

二四

二四二

九二

注 朝日新聞の機構を基準とした。

(別紙第四)

年度別原稿係依願退社人員並にその比率調

比率

95%

93〃

95〃

90〃

94〃

69〃

20〃

75〃

65〃

19〃

8〃

8〃

内依願退社数

73

39

19

18

15

18

1

12

11

4

2

1

退社総数

77

42

20

20

16

26

5

16

17

21

24

13

年度別

昭20

21

22

23

24

25

26

27

28

29

30

31

(別紙第五)

昭二七年度

昭二八年度

昭二九年度

昭三〇年度

昭三一自一月至四月末

増員

欠員補充

増員

欠員補充

増員

欠員補充

増員

欠員補充

増員

欠員補充

増員

欠員補充

東京本社

41

44

85

51

27

78

13

8

21

6

9

15

17

1

18

128

89

217

大阪本社

57

18

75

7

24

31

6

14

20

3

4

7

5

1

6

78

61

139

名古屋本社

25

4

29

18

4

22

7

7

5

5

3

2

5

46

22

68

西部本社

43

9

52

26

13

39

9

6

15

3

6

9

1

1

82

34

116

166

75

241

102

68

170

28

35

63

12

24

36

26

4

30

334

206

540

(別紙第六省略)

(別紙第七の(一))

(社会部配属原稿係)

『昭和三十一年三月十三日から十四日朝までの勤務ぶりだけを見る』(社会部は日勤二人夜勤二人泊り一人)

日勤者朝八時過出勤、社会部デスク(注。責任者席)と部員の仕事場を掃除後、Aはデスクに待機、Bは他のテーブルで出先クラブからの電話にかかる。自動車の伝票おろし専門の電話(伝票おろしは三階編集局から一階の自動車操車係まで往復)。午前十時気象台に天気予報問合わせ。原稿を気象台のいう通りにとつてデスクに渡す(この仕事は原稿係が専門にやる。)。十時過から夕刊一版用の原稿がデスクに電話が来る。AもBも電話に取りつく。出先からの電話の半分は社員がとり半分はAとBとがとる。午前十時から午後二時半までの夕刊締切りまでには平均二分おきに電話がくる。デスクに五本、他のテーブルに七本の電話があるがデスクの分だけはAとBが応援する。食事時間は一定しない。記事の暇な時を交替でねらう。デスクを離れられない社員が二、三名いるのでその食事だけは運ばざるを得ない。午後二時すぎから部員への面会人が十人。その世話応待も意外に手間どる。午後四時から八時までの間に警視庁はじめ十余の出先クラブからの自動車請求数は二十五回。その都度伝票をおろす。(出先記者は自動車を請求する時には原稿係を呼び出す)午後四時から七時までに天気予報と温度を気象台に四回問合わせる。AとBが交替に問合わせる。夜十時以後は事件もないのでデスクにただ待機姿勢。この間社会部と整理部との間を書原稿連絡で十往復。印刷工場の大組係にも二回往復。追込み記事を運ぶ。十四日午前零時四十分目白の川村学園が火事。社会部員、写真班員出動、それぞれ懐中電燈と長靴を準備して持たせる。自動車伝票おろしを終りデスクで警視庁と消防庁との電話連絡の応援。電話は断続的に三十分もかかる。十三日から十四日にかけて本社パトロールカーが社会部関係で出動していなかつたのでそれとの連絡はなかつた。(パトカーが出ている時はその専用電話に社員が一人つき、原稿係が鉛筆や原稿紙の補給に一人つく)

参考(日勤は午前九時から午後四時まで、夜勤は午後四時から十時まで、泊りは十時から翌朝三時前後の締切りまで)

昼勤 九、〇〇―一六、〇〇

夜勤 一六、〇〇―二二、〇〇

宿直 二二、〇〇―一、三〇

一、政治部

二名

一名

一、経済部

二名

一名

一名

政治部と経済部は従来より仕事の関係上、デスクが隣接しているので、原稿係もまた、担当は一応、政治、経済とわかれてはいるが、お互いに適宜応援しあつている恰好で、社員もまたつきまぜて仕事を頼んでいる。いわば政治、経済は一つの部であつて、昼勤四名、夜二名が配置されているというのが実際の姿である。

(別紙第七の(二))

(政治部配属原稿係)

午前九時―九時半頃までに、机上の掃除及び原稿用紙、鉛筆、インク等必要物品を整え各社新聞の綴込み保管などを終える。その頃より夕刊担当のデスク(次長)が出社し、十時過ぎ頃よりぼつぼつ電話で原稿が送られてくる。電話送稿で決まつているものは閣議、国会関係(衆、参本会議、各委員会)及び各省関係の発表ものなどで、各版の締切時間真際に集中的に送られてくる。政治部のデスクは手薄なため電話受稿の殆んどを原稿係が引受ける。原稿をとるものとカーボンを入れるものと二名でかかる。とり終つた原稿はデスクに渡す。デスクは原稿に目を通し、直しの赤筆を入れる。デスクが直した通り、複写した他の壱通の原稿に赤筆を加え、出稿簿に出稿時間を記録して整理部(東京関係)と連絡部(大阪、名古屋、西部の三本社関係)のデスクにそれぞれ流す。

以上が受稿から出稿までの仕事である。

電話原稿は前十一時頃より後五時頃(朝刊四版)までに多く送られてくる。夕刻まで電話送稿が多いのは各記者が出先クラブで、取材執筆した書原稿を本社に送るよりも、電話で吹込んだ方が時間的に早いからである。(後刻、電話済の原稿はデスクに屆けられる)その反面朝刊四版以降は書原稿が多くなる。これは夕刻になれば各記者が出先クラブより本社に上り、本社において朝刊五―七版替りの原稿を執筆し、書原稿として直接デスクに差出すからである。

電話送稿

書原稿

夕刊(朝四版)一〇、〇〇-一六、〇〇

一六

二〇

数字は各々最近の平均

朝刊(四版以降)一六、〇〇-二二、〇〇

一四

二〇

電話受稿は夕刊三版から朝刊四版締切までが頂点で、この時間原稿係は昼夜勤が重複勤務し実働六名(政・経両部協力)となるが、朝刊五版からは別表の通り、書原稿が多くなるので、原稿係は二名(政経両部で)となる。七版以降は一名(政経両部で)となり、平常の場合午前一時半頃にはほとんど出稿は終了する。

以上出稿関係の仕事の間に ○出先記者が依頼してくる廻りの自動車の伝票を操車係デスクまで屆けたり(昼夜勤で八〇枚の多きに達することもある、政経両部合せて) ○国会及び各クラブ記者への電話連絡、呼出し、原稿用紙、鉛筆、封筒等の補充、また資料(切抜など)の発送。 ○お茶入れ ○執務時間中席を外せないデスクへ食事の出前。その他○政治部員の時間外報告書の作製や出張旅費の仮払い。精算。論壇の原稿料。座談会の謝礼などの会計事務を政治部デスクの指示により、編集庶務経理課を通じて行う。

◎経理部配属原稿係

政治部と同様、前九時半頃までに机上の掃除及び原稿用紙、鉛筆、インキ等の必要物品を整え、各社新聞の綴込、保管を終る。やがて夕刊担当のデスク(次長)及び商況主任が出社する。十時頃より商況主任監督指示のもとに商況関係の電話受稿の仕事が始まる。まず○日銀帳尻(日銀より電話受稿) ○繊維場況、雑観、現物(取引所より電話受稿) ○投資案内及び電話カツト(雑観)(予備原稿) ○横浜生糸雑観(連絡部より受稿)等を出稿する。

○十時四十五分株式場況と雑観の電話受稿。 ○十一時十分株式相場(値動き数字)の電話受稿、これは工場に設けられてある取引所との直通電話により受稿するもので、原稿はその場で工場に流し、直ちに活字に組みゲラ刷りとなる。ゲラになつた原稿を電話により、いま一度読合せをし、誤植があれば校正の上、夕刊一版降版となる。これを大組に組込むのは商況主任である。 ○十二時から一時頃までに株式場況、横浜生糸の夕刊二版用の直し、及び商況相場、繊維出来高確定赤字を出し夕刊二版終り。 ○一時二十分より三時半頃まで夕刊三版、三版〇用に商品相場(後場)、株式後場況、株式相場をそれぞれ電話受稿し、統合版用として「投資案内」「電話カツト雑観」の切張り新組の出稿をする。 ○四時から六時までに統合版用として株式場況及び終値まで入つた商品相場、日証金信用取引残高等を電話受稿し商況関係の受稿を終る。以上の通り、商況関係の電話受稿は大半が数字で、毎日極まつた時間に、所定の用紙に記入する仕事である。これは勿論商況係主任の責任監督下において行われている。 ○朝刊四版以降になつて一般記事の原稿が出るが、これはほとんど書原稿であるので、夜勤の原稿係の電話受稿は少い。原稿に関しては赤字直し、整理、連絡部デスクへの配達が主である。後五時―十時までの平均出稿数は十五本、後十時以降は平均二本程度で前一時半頃には完全に終了する。

以上出稿関係の仕事の間に、出先記者が依頼してくる自動車の伝票を操車係のデスクまで屆けたり、各クラブ記者への電話連絡や原稿用紙、鉛筆、封筒等の補充発送、お茶入れ、席を外せないデスクへの食事の出前などをする。その他経済部も政治部同様デスクが極めて手薄なので経済部員の時間外報告書の作製や、出張旅費の仮払い、精算、座談会の謝礼などの会計事務をデスクの指示により編集庶務部経理課を通じて行つている。

(別紙第七の(三))

(整理部配属原稿係)

整理部は朝夕刊本紙デスクを中心に東京版デスク、統合版デスク、他に図案係の四ケ所に別れ部長、次長以下四十名近き部員が紙面編集に当つている。ここに働く原稿係は昼勤二名、夜勤三名、泊り勤務二名の交替で行つている。まず午前八時に昼勤者が出勤してくると、どこの部でも同じであるが机上の掃除が始る。終つてインク壷のインクを補充し毛筆を揃え数ダースの赤鉛筆を削り、それぞれ所定の位置に置く。更にその日々必要な原稿整理カード約二百枚に日付印を捺し、各編集者の机に配る。その他各社新聞紙を綴り込み、東京版、江東版、城北版、経済面、スポーツ面等を切り抜きスクラツプ・ブツクに帖りつける。かくて一段落した頃、九時半には編集者が出勤してくる。夕刊に『これからの世界地図』とか清水崑の『一筆対面』とかの連載物がある時は編集者の指示により漫画や地図の凸版を写真製版部にとりにゆき、それを持つて二階の活版部(いわゆる工場)にゆき既に活字に組まれている記事の囲い物の中に凸版をはめ込み自分でゲラに刷つて編集者に手渡す。十時頃より各出稿部(注。原稿を出して来る部―政治部、経済部、社会部等を指す)から出された原稿は編集者によつて体裁を整えられ、見出しがつけられるとそれを三階から二階の工場に通ずるキヤリヤーまで次から次へと運び工場へ降すのである。その間部員に頼まれて四階の調査部へ人物写真、切抜、縮刷版等を借りに行つたり、工場から凸版活字を取つて来て写真製版部に持つてゆき縦、横寸法の計られた型紙を貰つてきて渡す仕事、その他ニユース写真の段数を決めて貰い、同じく写真製版部に運び型紙を貰つてくる等休むひまなく、何回も足を運ぶ。編集者は十一時、一時、二時、三時に各三十分位工場に降りて大組の立会をする。その間僅かなひまが出来るが締切間際に出て来た原稿はキヤリヤーによらず直接工場までかけ降り編集者に手渡すのがしばしばである。十二時、一時五十分、二時四十分、三時半にはそれぞれの版の夕刊が刷り出されるので一般配布に先だつて一階の輪転係まで取りに行き、編集者に配布する。その他新組と称するものがある。これは一度活字に組んだ原稿が紙面の都合で載らなかつた場合後になつてそれを使う時がある。その時既に組まれていた活字は崩されているから新しく原稿を作り組み直して貰わねばならないので残してあるゲラ刷を指示通りの行数――大体三行位に切つて一枚一枚原稿用紙に帖りつけて原稿に作り直す仕事も毎日必らず二、三回はある。この種ゲラ刷などの仕事はいずれも編集者から命令されその通りするのである。又『社会戯評』『クリちやん』等の漫画や連載小説の原稿をそれぞれ写真製版部へ、工場へ持つて行きノートに受領印のサインを貰い、そのノートを学芸部に返却する仕事も毎日行われている。その他増頁を通告する回章用紙を関係局、部に通知して歩く。その間編集者に食事の出前、お茶のサービスなどは各部と同じである。かくて四時に夜勤者が出勤してくると事務引継をなし、昼勤者の勤務は終了する。交替した夜勤者も大体昼勤者と同じように工場、写真製版部、調査部等へ走り廻り出来上つた原稿をキヤリヤーで工場に降すのが主な仕事である。又掃除、鉛筆削り、各社夕刊の綴り込み等、これ又昼勤者と同じであるが夜勤者は時時デスクの要請により早目に出勤をなし、部員の勤務時間報告、時間外報告書を台帳に書き移し時間外支給日には金額を封筒に記入し、その額を入れて分配する仕事も行う。夜勤者は十時に泊り勤務者と交替同じく引継を終り帰宅する。泊り勤務者も大体昼勤、夜勤と同じ作業を繰り返へしているうち、朝刊最後の都内版が午前三時過ぎに出来上つてくる。編集者はこれに目を通して三時半か四時に引揚げると初めて整理部勤務の原稿係は一日の仕事が終了する訳である。

(別紙第七の(四))

(校閲部配属原稿係)

校閲部における原稿係の一日は延七名で、日勤二名、夜勤三名、宿直二名という三交替の勤務になつている。日勤二名は大体午前九時出社、テーブル、灰皿の掃除、インクの補充、赤鉛筆の一日使用分として約二クロス、その他青鉛筆、普通鉛筆、筆等を整備する。一方各社新聞、地方版、東京版関係の新聞綴込が終るのが十時半頃。これより先き前夜宿直の社員が九時半頃、十時頃からは十名位の社員が出社していよいよ夕刊の仕事が始まつてくる。各部から出稿された原稿が活字となり、原稿とゲラが十時すぎる頃からキヤリヤーで上げられ、その都度担当部員のところに配布する。赤字がすむとすぐまたこれを工場におろす。これが時間とともに量も増えてくるというわけで、大組が終る頃になれば工場に行き一面、社会面の大刷を七枚刷つてもらい出稿各部に配る。この夕刊大刷配布が最終版までで四回、その間、夕刊刷り出しの度に印刷まで行き各弐十部を取つて来て整理部に十部。残りを校正用として担当者に配布する。これを四回繰返す事になる。この間隙をぬつて部員にお茶を入れたり、自分達の食事を交替で済ませる。夕刊の時間としては午後一時頃から午後二時半頃までが、もつとも忙しい時間で機械的な動きはキヤリヤーの延長の様なものである。夕刊が一段落した午後三時半頃夜勤三名が交替出社しこれといつしよに朝刊本紙、地方版の仕事にかかる。夜勤者は日勤者が準備した物品を補充的に整備し、午後三時五十分頃から上り始める朝刊のゲラと取組み、午後五時二十分に最初の早版大刷を取つて配る事から始まる。夜勤は日勤と多少違い分業的に処理する為めABCの三人が一時間づつ本番をきめて交替し他を補助する。例えば午後四時から五時までがA、五時から六時までがB、六時から七時までがC、という組合わせで他は補助になる。六時頃から本格的に忙しくなつてくるので六時から七時をCA、七時から八時をAB、八時から九時をBCという具合に組んで本番が工場から上る原稿とゲラを担当部員に配れば、補助氏が校正したゲラをデスクから工場に降す。この仕事は大体朝刊本紙の再校をふくめて百回、地方版関係が二百回となることもある。又他の補助は地方版の赤字ゲラを県版毎に差し大刷が来たとき一諸に担当部員に配る仕事や、本紙のゲラを各関係部の為、五、六部を所定の所に差す仕事など。時には責任者の所で校正中、その原稿に不審の点が生じ然も責任者が直接関係デスクに出向けない場合、その問合わせを依頼される事もある。この他責任者の指示により夜食券の請求と配布、宿直者の屆出、部員帰宅の自動車の申請等を連絡するのも仕事の一部である。かくして夜勤々務の大半を終るのは午後十時、宿直勤務者二名に引継がれ出稿の山を越した最終版までは突発事件の起らぬ限り夜勤者の仕事を繰返し午前三時半頃終了と同時に明朝に備えて跡始末をして一日を終る。

(別紙第七の(五))

(連絡部配属原稿係)

連絡部には昼勤三名、夜勤三名、泊り一名の原稿係が配属されている。連絡部には三本社および東京本社管内の通信網から原稿がおくられてくるので、これらの原稿を連絡部デスクの指示により社会、外報、通信、政治、経済、学芸、整理等各部のデスクに運ぶのがその主なる任務である。三名配属の内訳はデスク(ヘル(注。文字電送)、電信を含む)に二名、電話課に一名である。三月十四日に例をとつてみるとF、Oの二人がデスク、Kが電話課に配属、午前八時半から九時にかけて三君の仕事がはじまる。机の上の整理やふき掃除、つづいて編集庶務部から原稿用紙や事務用品を運んで机上に配る。それから交互に鉛筆削り、連絡部全体で毎朝削る本数は二十四ダース平均、十時半ごろ編集庶務部を経て三本社の朝夕刊各八組が到着、各一組を保存用にとじこんであとはデスクその他に配る、といつた仕事をしているうちに三本社からの原稿が次々デスクや電信、ヘルに送られてくる。これをそれぞれの責任者の指示どおりO、F両君がかわるがわる社会、政治、経済、学芸その他の各部、あるいは電送室へと運搬、原稿のほかに行政や写真製版部へ行く用件も相当にある。夕刊一版の大刷りができる十一時半すぎには仕事も一段落の観があり、交代で昼飯をとり適宜休憩する。電話課のK君は速記から渡された管内通信網からの電話原稿を通信部に取次いだり、電話行政の紙片を電送室や関係部に運搬、午前中は割合その回数も少いが午後は地方版用原稿がかなりたくさんくるので取次ぎの仕事もふえてくる。デスク配属の両君はデスクから渡された三本社行航空原稿便を所定の袋につめて午後一時半に編集庶務部にとどける。つづいて大阪から送られてくる大相撲の記事、一つ一つの勝負の原稿をデスクから渡され、これを締切時間とニラミ合わせて運動部へはこぶ。かくて午後四時、夜勤組のKT、I両君と交代、各部への原稿運搬その他連絡等による各部往復回数は四十回以上に及んでいる。一方電話課のK君も四時でM君と交代したがこれら昼勤組は原稿運搬の合間に三回から四回お茶をいれている。夜勤は午後四時から同十時までだが原稿係としての仕事は昼勤と同じ、ただ午後八時になると大体地方版への送稿が終るのではないが一段落するので、電話課配属のM君は八時からは外報部へ回つた。これはこの日だけでなく、電話課の夜勤の原稿係は平常午後八時まで、残余の時間は他部へ配属されている。したがつて八時以後の電話課の原稿係の仕事は、デスク配属の二名が適当にカバーしている。午後十時に泊りのN君と交代して夜勤組の任務は終了。原稿係は一人となるが十時以後の原稿係の仕事はグツと減少、デスクのわきに待機、原稿や行政のくるたびにデスクの指示で関係部に運搬、デスクが最終版の大刷りを見終る午前三時すぎ、ときには四時になることもたびたびあるが、この時間で泊りの原稿係の勤務は終了する。

(別紙第七の(六))

原稿係はどんな仕事をしているか

――大阪本社の場合――

東京本社の場合として社会、経済、連絡、整理、校閲の各部(政治部は四本社中、東京本社だけにしかない)に配属された原稿係の仕事の内容が記述されているが、若干の点以外は、大阪本社の場合も、その仕事の性質は全く同じである。若干の点とは、各本社間の各部機構の相違、仕事を運ぶ上のしきたり、記者の取材範囲の大小および相違などによる原稿係の仕事の手順や、やり方の相違である。例えば東京本社経済部原稿係は、横浜生糸の相場や、日銀帳尻の電話受稿を手伝つているが、大阪本社経済部ではそれがないというわけである。いま東京本社の例に記述されていない三、四の部について大阪本社の場合をあげると次のようである。いずれも仕事の内容は多種多様にわたつてはいるが本質的には紙面製作に伴う雑用で新聞社の給仕の仕事としての領域を超えたものではもちろんなく「簡易にして機械的かつ雑用的なもの」であることに変りない。なお、ここにあげるのは大体毎日決つている原稿係の仕事であつて、この外にも種々の雑務をやつている事はいうまでもない。

△通信部配属の原稿係

まず通信部それ自体の組織と仕事を述べると、通信部はデスクと整理課と監理課に分れている。デスクは管内の支局、通信局を統轄し、地方から本紙への出稿は必ずこのデスクを経由する。また地方で事件発生の場合の取材指揮や、記事企画の立案と取材指示、その他地方支局通信局間と取材上のあらゆる連絡に当る。例えば、北海道で広島県の者らしい男が自殺したという記事が札幌支局から東京本社を経由して大阪に送られてきた場合、原稿はまず通信部デスクに出される。デスクでは広島支局にすぐ連絡してその人物について確める。広島からそれについての原稿が来ると、その内容によつて判断し、本紙なり、地方版なりにその原稿を出す。本紙の場合は整理部に地方版の場合は通信部整理課に渡す。同時に連絡部を経由して東京にも送つてもらう。それが有名人物の場合ならば、全国ニユースとして連絡部が名古屋、西部本社にも送稿するという手順になる。整理課は、管内の大阪府を除く各地方版計三十一を整理編集(二十九人)とする。一つの県でも県内の遠い地区へゆく地方版(締切が早い)と近い地区へゆく地方版(遅い締切)に分れているのが多い。多い県は一県で五つも地方版がある。監理課は地方支局通信局の経理関係の仕事および庶務を扱う。なお、毎日新聞社では朝日新聞の通信部に相当する部を「地方部」と称している。

(1) 通信部デスク配属原稿係

昼間一名だけで夜はいない。朝九時ごろ出勤、デスクの机上をふき掃除して鉛筆を削る。新聞のつづり込みをする。各支局から到着している原稿袋(ズツク製)を開いて、原稿(主として地方版原稿)をとり出し、地方版別に区分けして、整理課の各地方版整理担当者に渡すか、未出勤の者はその机上に置く。空袋を午前十一時ごろ編集庶務部小デスクまで持つてくる。十二時ごろまではひまになる。地方から送つてきて使用済みの写真中、「要返却写真」を発送して記帳する。また地方から送つてきた未現像写真や現像済み原版を写真部へ持つてゆき、焼付写真を取りにゆく。部員が手不足のとき東京から送られてきた地方版原稿中、二つ以上の地方版に書き分ける必要あるときはデスクの指示によつて複写する。特殊な仕事として大相撲各場所の期間中、十両以下の星取表を、力士出身の地方版別に、書き分けることをやることもある。勤務時間は午後四時までだが夜勤原稿係はいないので五時すぎまで居残ることが多い。

(2) 通信部整理課配属原稿係

昼夜間三名ずつ配属されている。昼間勤務者は大体九時ごろまでに出勤する。掃除、お茶くみ、鉛筆削りのほか、毎朝地方版のはり込みをするのがひと仕事。これは新聞一ページ大のベニヤの薄板に、その日の朝日、毎日の地方版を県ごとに張りつけて整理担当者に渡すもの。読売と産経の地方版は、張りつけないで一括して課長席の後方に置いておく。大体午前十時半ごろには朝の仕事が一段落するので、十二時ごろまでは手が空くことが多い。十一時ごろから締切の早い高知、愛媛版(午後二時締切)などの整理ずみ原稿が出はじめる。これからの仕事は、本紙整理部と大体よく似ており、原稿を整理部の柱の前にあるキヤリヤーで工場におろす。大刷を各地方版整理担当者に配り、朱(シユ)(誤りを直したもの)を校閲部に運ぶ。整理担当者が指定した写真の取扱い段数に見合う倍角(横の長さ)を測るものもいる。組版(東京の場合の整理部の項に出ているもの)の活字とゲラ刷りを活版部から校閲部に持つて上り、点検を受けてから整理担当者に渡し、サイズの指定を受け、写真製版部に運ぶ。普通写真と組版運びのため、写真製版部への往復回数は昼夜を通じて延べ二十回ないし三十回になる。午後四時に昼夜勤者が交代となる。このころから二、三時間が地方版整理の最も忙しい時間である。七時半ごろ、地方支局へ送る原稿便(新聞や、プリント、写真資材など)の準備にとりかかる。原稿袋に入れる場所は編集庶務部小デスク(部員席)で、夜勤のうち一人が袋に入れるものを持つてきて、編集庶務部原稿係と一諸になつて二十二個の袋に入れ、そのうち十個は同夜中に発送するため玄関におろす。三十一の地方版のうち締切の最も遅い京都、神戸、阪神の三版も九時二十分ごろには締切られ、十時すぎには一応夜勤者の仕事も終る。

△学芸部配属の原稿係

昼間一名配属されている。朝九時ごろ出勤する。掃除、お茶くみ、鉛筆削りは他部と同じ。デスクの指示により新聞のスクラツプをするが、その量は他部に比して相当多い。依頼原稿掲載紙を筆者に発送する。学芸部は読者からの投書――例えば詰将棋、「かたえくぼ」、「ひととき」など――が多いので、この投書を種類ごとに選別するのがひと仕事である。選別したものはデスクに渡す。また、当選者へ送る賞品の荷造りをして編集庶務部小デスクまで持つてくる。デスクの指示により原稿料を送る手続きをする。すなわち、指示された原稿料から、一覧表により所定の税金を差引く計算をして、伝票に書込み、部長の承認印をもらつて編集庶務部経理課へ持参して、送金を依頼する。(経理課では所定の手続きを経て会計部へ渡し、会計部は銀行に依頼して送金する。)なお、十日ごとに部員の取材用市電、バス、地下鉄回数券を編集庶務部から受取り部員に渡している。よほどの事がない限り、午後四時から五時には仕事を終つている。

△調査部図書係(通称「文庫」)配属の原稿係

昼間一名配属されている。九時ごろ出勤、掃除、お茶くみ、鉛筆削りの後、新聞のとじ込みにかかる。とじ込み新聞の数は十二、三種あり、終るのは十一時ごろになる。ここの一番主な仕事は刊行物の保存とじ込みと社内配布である。本社刊行物はじめ官報、特殊新聞、雑誌、単行本など毎日相当の数に上る。配布は本社の定期刊行物の場合は、所定の配布先に一々配つて歩くことが多い。他は同室、または階下業務局に設けてある区分けタナにそれぞれ入れる。また調査部図書係員が書籍を書庫に出し入れするのも手伝いし、貸出し書籍のカード記入もする。午後四時から五時には勤務を終る。

△編集庶務部配属原稿係

定数は昼勤十一名、夜勤八名となつているが他部配属者の病欠、公休、休暇者を補充するため、何名かを毎日他部へ回すため、実勤務者は定数より常に少ない。昼勤者は早いものは午前七時半には出勤する。掃除する場所は編集庶務部のほか、原稿係を配属されていない記事審査部、世論調査室、特信課、読者応答室もする。お茶くみ、鉛筆削りも同様である。これが朝十時ごろまでかかる。庶務部の仕事は、あらゆる雑務だが、毎日決つている仕事としては、毎朝編集局内各部から集めた前日の新聞紙を整理して、保存つづり込みの分以外は束にして荷造りする。東京、西部、名古屋三本社あての原稿便を締切り、デスク部員指示の下に発送する。原稿便の発送は航空便、汽車便合せて合計一日七回十三便に上る。また三本社から到着する原稿便は一日五回八便であるが、到着すると袋を開いて東京、名古屋、西部本社発行の朝夕刊を各部に所定配布し、必要部数を保存する。また、刷上りの本紙を各版ごとに(夕刊三回、朝刊九回)印刷局へ受取りに行き、各部へ配布し必要部数を保存する。他社との交換紙を本社玄関までおろす。到着郵便物を仕分けし、配布する。社内印刷物を各部へ配布、各局長、部長あての回章の社内持ち廻りをする。各部の必要事務用品の伝票を資材部へおろし品物を受領する。地方支局へ原稿便発送の手伝い等々がある。昼夜勤の交代は午後四時、夜勤者は午後十時ごろには一応仕事を終り、あとは宿直者にかわる。

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